Excerpt for 消えた横浜娼婦たち 第三章全文 by 檀原 照和, available in its entirety at Smashwords










白塗りメリーの物語

(データハウス・刊「消えた横浜娼婦たち」より)


檀原照和























Published by Dambala Tell-kaz

Coryright (c) 2009 by Dambala Tell-kaz

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Smashwords Edition, License Notes













有隣ファボリ前で

(タウン誌「ハマっ子」平成二年一一月号より)

















港のマリー


岡山県の深央部。外界から半ば隔絶された山里。それが少女の故郷だった。村人の多くは海を知らないまま、一生を終える。


旧制小学校を卒業して三年すると、父親が他界した。それから少女がどんな足取りを辿ったのか、誰も知らない。はっきりしているのは横浜に流れ着いたこと、いつのまにか「港のマリー」と呼ばれるようになっていたことくらいである。



昭和二十年代。戦争に敗れ、最盛期には九万六千もの米兵が進駐していたという横浜港周辺には、夜の女たちが陣取り、春をひさいでいた。


皆、米兵から英語名をつけられ、あるいは顔を売って懇ろになってしまおうと、自ら英語名を名乗った。当時はキティー台風やジェーン台風といった具合に、自然現象さえバタ臭い名前だった。日本娘の名前がアメリカ風だったとしてもなんら不思議なことはない。キャシー、リンダ、エミリー……。そのなかにマリーと呼ばれる女がいた。


作家の北方謙三は、平成四年一月一〇日に行われた紀伊國屋ホールの講演会でこんな風に語っている。


「僕の父親は船長で、一年のうち十一ヶ月は外国航路についているような生活をしていました。つまり日本にいるのは一ヶ月だけなんです。帰国中の父親に会うため、母親と一緒に夜行の汽車で(居住地である)九州から横浜まで旅することが多かったのを覚えています。


当時の横浜は今のようにおしゃれな所ではなく、とにかくバタ臭い所でした。華やかな部分もあったものの、ヤバい地区も存在していて、黒澤映画の『天国と地獄』そのままの世界。文字通り『地獄の口』が空いているような場所もありました。


日ノ出町、黄金町、真金町なんてすごかった。ジャンキーが禁断症状起こして、震えている所なんかも見ましたよ。躰を縮めてお互いの顔なんて見ようともしない。きれいなお姉さんが服を引きちぎるようにして躰を掻きむしったまま倒れてしまい、そのままドブに半分はまってしまうところとか。昭和二〇年代初めのことですけどね(*註1)。


父親に連れられて横浜の街を歩いていると、金魚みたいなひらひらした服を着たお姉さんが『キャプテーン』と言って走ってくることもありました。つま先まで真っ赤に染めて、化粧も仕草も本当にきれいで、僕が生まれて初めて『女だな』と意識した存在。当時の言葉で言うパンパン(*註2)だったんだけど、見たこともないほどきれいだったね。僕の父親は船長でしたから、部下を管理する責任があったんですよ。で、その彼女は『お宅のナンバー○○ボイラーがケンカしてたわよ』なんて、航海で寄る度ごとに報告してくれる人で『マリンさん』という名前でした。


いまも横浜には『港のマリー』という人がいるんですよ(*註3)。いまこの季節は真っ赤なコートを着て歩いてるんじゃないかな。銀髪で後ろから見ると外人みたい。前から見ると髪を染めた普通のおばあさんだと分かるんだけど。


あるとき、このマリーさんに会ってみたんです。後ろから『マリンさん』と声をかけたら振り向いて『はい?』……分かんないんですね。幼い頃見たマリンさんと(港のマリーが)同じ人かは分からない。千円渡して別れました。きっと彼女はもう現役ではなくて、酔客からお金をもらって暮らしているんじゃないかと思うんですね。


昔、横浜にはマリーという名前の人がいっぱいいたと思うんです。『港のマリー』だけではなくて、『本牧のマリー』や『馬車道のマリー』もいたんじゃないかな」


北方が言うとおり、港の辺りにはたくさんのマリーがいた。これからお話するのはその中の一人、もっとも有名なマリーの物語である。



*註1 北方謙三は昭和二二年生まれである。昭和二十年代初めのことを記憶しているとは思えない。年号に関しては北方の記憶違いだと思われる


*註2 昭和二五、六年当時、移動証明書がなくても女性が働けるところはパチンコ屋と赤線くらいしかなかった。仕事の絶対量自体が少なく、雇用は男性が優先された。都会に出ても仕事にあぶれ、生活のために身を売った女は大勢いたと思われる。


*註3 北方が「マリン」という名前と「マリー」という名前を区別していない点は興味深い。同様に年配者は「マリー」「メリー」「マリア」といった名前を区別していないことが多い。本書でもこれらの名前は区別しないものとし、以後、基本的に「マリー」も「メリー」と表記することとする。






白い老女


その老女は明らかに異様だった。顔はどうらんで塗りつぶされ、真っ白なドレスをまとっている。文字通り全身白ずくめだ。目元はアイラインと呼ぶのがはばかられるほど濃く強調されていた。年齢のせいであろう、背中がかなり曲がっている。背丈は一四〇センチくらいだろうか。日の当たる時間帯にはあまりにも場違いな風体であった。老女は「メリーさん」とよばれている。街の噂では外国人専門の高級娼婦だったらしい。


メリーさんのことは誰もが見て知っていた。彼女は街並の一部であるかのごとく振る舞い、横浜にいれば自然と会えたのものだった。物腰からは気品と威厳が立ちこめ、軽々しく声を掛けるのはためらわれた。もちろん、なかには彼女のことをまったく知らない人間もいて、運悪く鉢合わせ、ぎょっとすることもあった。そんな彼女がいつから横浜にいるのか、本当のところは誰も知らない。


末藤浩一郎というフリーライターがいた。末藤さんは太田出版の雑誌『Qucick Japan Vol.5(平成七年 一二月)にメリーさんのレポートを執筆。この記事には反響があり、太田出版の「八〇〇円シリーズ」のラインナップの一つとして出版する、という企画があがった。しかし彼はメリーさんに圧倒されて取材をつづけることが出来ず、ライターを廃業してしまったという。


わたしは平成一九年二月の大雨の夜、末藤さんに会って体験談を伺った。


「メリーさんは狂気と正気の紙一重の状態。まったく正気でもない。ダークサイドでもある。そういう人は人を惹きつけるんですよ」




「カム・ヒア・メリー!」


「あの記事は一晩中メリーさんの様子を観察しながら書きました。メリーさんは娼婦ということもあり、聖と俗の境界線、あるいは生と死の境に立つ存在だと思いました。道路にすっくと立つ姿は、まるで聖女のようで。


私が記事を書く前に、すでにミリオン出版の『GON!』に彼女の記事が出ていました。そこに『メリーさんは『午後の紅茶』が好きだ』とあったので、『午後の紅茶』のレモンティーを渡した所『白いのがいいの』と言われてしまって。ミルクティーを買い直したら、今度は素直に受け取ってくれました。


それからずっとメリーさんを見ていたのですが、大分時間が経ってから『どなたかお待ちになっているんでしょ。その方にあげてください』と言って紅茶を返されてしまいました。『施しは受けない』という風にも取れたし『気を遣ってくれた』とも、他の意味にも取れましたね」


末藤さんはつづけて言った。


「背中が曲がっていて両足は大きく開いて歩いていました。きっとそうしないと躰が支えられなかったんでしょう。服も靴も汚れていたし、生臭かった(一部の人が言うような香水の匂いではない)。メリーさんの写真集を出している方がいますが、大分メリーさんを美化して撮っていると思いました。


だけどおばあさんにも見えないんです。白塗りのせいもあって、なにか超越的な存在でした。


メリーさんを見て感じたことは「楽しそうにしている」という事。声と笑顔がやけに印象的で。


『GMビル』という雑居ビルのエントランスの、ライトの当たる場所を選んで立っていましたね。まるでスポットライトを浴びているかのようでした。あそこはメリーさんにとって、ステージだったんですよ。あの化粧や服も舞台衣装みたいですし。


巷で言われているように『ホームレスになってしまって、仕方なく寝場所を確保するために……』ではなく、主体的にここを選んだんだ、と感じました。仕方なしに、という感じは受けませんでした。


GMビルに来るほとんどの人がメリーさんに声をかけていて、日本人の酔っぱらいが『カム・ヒア・メリー!』なんて言って。GMビルは外国人ホステスが働くクラブが多いのですが、メリーさんは彼女たちとも英語混じりの日本語で話していました。その光景は、まさに戦後そのもの。


『ここは、いつの時代のどこの国だろう?』と思わずにはいられませんでした」


「メリーさんはお客さんたちをエレベータに乗せては見送っていました。そして三十代以上の中年男性を選んでは『これでどう?』と手真似で金額交渉しながら、客引きをしていました。僕のことはタイプではなかったようで声はかけてもらえませんでした。もし誘われたら、応じようと思っていたんですが。


メリーさんに話しかけようとしたら、ビルの飲み屋のお客さんが『だめだめ。これだから』とこめかみの横で人差し指を廻していました」


「驚いたことに、メリーさんは決して座り込みませんでした。GMビルには手頃な階段もあることだし、人がいない時間帯であれば座っても良さそうなものですが、彼女は丸一晩、ただの一度も腰掛けなかったんです。手すりに顔を伏せるようにして身を休めることはありました。でも絶対に座りません。逆に見ている僕の方が疲れてしまい、なんども座り込んでしまいました。


『立ち続けることこそメリーさんなんだ』


これが一番の印象です」

 



シルクセンター


柴田武郎さんは山下公園前のシルクセンターに宝石店「三晃(さんこう)」を構えて五〇年になる。メリーさんのことは昔から知っていて、遅くとも昭和三〇年には横浜にいたはずだ、という。日本が悲惨きわまりない戦後の混乱期を抜け出し、高度経済成長に踏み出した時期だ。


「そのころ私は伊勢佐木町のスーベニアショップ(現在は電器屋になっている)で働いていましたが、メリーさんがうちに買い物に来たことがあるんです。派手なハッピのようなものを着てましたね。うちでコートと扇子を買っていって。誰かにプレゼントするのかな、と思ったら、明くる日それを着てました」。当時ハッピは「ハッピーコート」とよばれ「半被」と「Happy」を掛けた縁起物として外国人に人気があった。


まだ背中がしゃんとしていたころのメリーさんはシルクセンターがお気に入りで、毎日のように散歩に来ていた。


「わたしは全館オープン前の昭和三三年から店を出しています。周りにはまだ米軍基地のフェンスがありました。


ここもオープン当初は優秀な店しか入居を許されなくて、ミキモト、コスヤマモトなどが入居していましてね、いまでは見る影もありませんけど。トランジスターラジオなど外国人向けの電気の専門店も入っていました。東京オリンピックの頃がピークだったでしょうか。最初はシルク博物館、シルク取引所、シルクホテルの三本立てだったんですよ」


建設当初、洋風のホテルはまだ数が少なく日本風の旅館の方が多かった。ホテル周辺にはなにもなく、陸の孤島のような感じだったが、眺めは最高だった。


「朝鮮戦争後のノースピア(神奈川区にある瑞穂埠頭の英語名)は輸送船でいっぱいでした。米兵はここで下船して、市電を使って中華街や伊勢佐木町へ繰り出していったんです。繁華街は米兵であふれかえってましたね。そして二、三日間休暇をとって、戦場へと旅立っていくんです(*註1)。


そこら中パンパン宿だらけでした。ここに来る前は市役所で働いていたのですが、役所の前にもいろいろなパン助(パンパン)がいましたね。


ベニヤでつくったパンパンハウスという三畳くらいの広さの家もあったけど、その下のランクになると外でやっちゃうんです。当時は外でやってるパン助がいっぱいいてね。


さすがに冬になったら表では出来ないはずだから、冬場のパンパンハウスは儲かったんじゃないですか?」


「メリーさんですか? シルクホテル・オープン当初は気づきませんでした。気が付いたらいつのまにかいた、という感じです。地階のアーケード前のイスによく座っていました。よくウロウロしていましたよ。あの人のいないシルクセンターは考えられませんでしたね。


パイラー(客引き)も使ってなくて、当時から目立ってました(*註2)。チンドン屋みたいな恰好でしたよ。土産物のコートとか羽根が付いた扇子を持って、白粉をべたべた塗って、香水をプンプンさせて。私たちは『クレオパトラ』なんてよんでました。『皇后陛下』と呼んでる人たちもいましたけど、ちょっとその呼び方はね。


大桟橋に船が入ると外国人のお客さんがアーケードにたくさん来たもんです。客船がたくさん入ってきた時代でした。飛行機は高くてまだ一般的ではありませんでしたし。


メリーさんは最後までそのすぐ前をウロウロしていましたよ。カモになりそうなじいさんの船員を狙ってね。男は朝起きてメリーさんの顔を見たらびっくりしたんじゃないかな。


最後は一年中真っ白でした。最初の頃は高いヒールだったけど、段々ペッタンコになっていったね。


彼女は昔から年を取ってましたよ。酔っぱらいを騙してたんじゃないかなぁ。(他の娼婦のように連まずに)ひとりだけ一匹狼で、ものすごい厚化粧で。言葉遣いはものすごい上品なんだけど、シルクセンターの守衛さんとケンカするときは『てめえ、バカ野郎!』すごいんですよ」。



*註1 参戦していたのはアメリカだけではない。エチオピア、ギリシャ、トルコ、ベルギーの兵隊も横浜にやって来た。休暇中の兵士は大変な浪費ぶりを発揮した。


「朝鮮戦争中、パイラーに捕まった米兵はみんな本牧に連れて行かれて腕時計まで身ぐるみ剥がされるようにして金を使わされた。彼らの休暇(つまり日本滞在期間)は一週間。情けのあるパンパンはすかんぴんになった兵隊に土産を買ってやったものだった」(白土秀次・著「ホテル・ニューグランド50年史」より)


*註2 宝石店「三晃」の柴田さんは言う。


「シルクセンターが開業した昭和三十年代前半、伊勢佐木町でメリーさんと張り合えるくらいの存在感を発揮していたのは「おっぱい小僧」くらいなもんでした。「小僧」っていっても女の人ですよ。パイラーが付いていない一匹狼で。背が小さくて胸が大きくて。稼ぎがよくて。良い娼婦でしたよ」


この「おっぱい小僧」(*註1)は川口初子という浅草のストリッパーの芸名である。「週間実話」編集長からの情報によると、川口初子は浅草のスターで昭和二二年の「額縁ショー」(ストリップ黎明期のヌードを売りにした見世物。 舞台上の踊り子は自由な動きを規制されていたので、 額縁の中で裸になり三〇秒ずつポーズを取った)にも出演していたという。内外タイムス主催の「昭和二六年度ストリッパー・ベスト一〇」で彼女は二〇位にランクインしている(同年、伝説の踊り子ジプシー・ローズの名が一八位に上がっている)。


彼女の売りはなんといっても豊かな胸で、顔を隠した踊り子たちがならんで、男たちに彼女を当てさせたところ、胸のかたちが見事だったため簡単に見分けられてしまった、という逸話が残っている。


川口は昭和三〇年頃横浜に流れたと噂された。ハマの劇場にも出演したという話だが、その後の消息は不明である。


なお、「おっぱい小僧」というのは、かつてポピュラーなあだ名だったらしい。昭和五十年頃中区相生町で評判を取っていた「ブルー」というクラブの五味まり子ママも、その抜群のプロポーションから「おっぱい小僧」と呼ばれていた。




必ず胸元から一万円のピン札を出すんです


私の知人の中にも、シルクホテルに通うメリーさんを知る人物がいた。舞踏家の大野慶人さんである(わたしは二年弱の間、大野一雄舞踏研究所に通っていた)。慶人夫人は山下公園にほど近い海岸通りのシルクセンターで薬局を経営していた。慶人さんも手伝いをしていた時期がある。


「シルクセンター・ドラッグへは毎日来ていましたね。散歩コースだったみたいで。雨の日も風の日も毎日来ていた。時間帯は昼間。服はいつも白い服でした。白しか着ませんでしたね。」


慶人さんはメリーさんから「パパ」と呼ばれていたという。舞踏家らしく「雨の中を歩いても後ろにハネを飛ばさないんですよ」と観察が細かい躰運びにまで及んでいた。


「必ず胸元から一万円のピン札を出すんです。絶対に折れたのは出さない。ピン札なのはきっと毎日銀行からお金を卸してくるからだろうな。細かいお金はチップでくれるんですよ。ふつう薬局にチップくれる人、いないでしょう? それからお釣りの千円札だけしまうんです。


買うのは化粧品。薬は買いません。化粧落とし用のガーゼもよく買ってました。化粧品は資生堂の歌舞伎役者用のものでした」


「シルクセンターのロビーにイスがあったんです。メリーさんのことは『きんきらさん』と呼んでいたんですが、きんきらさんがよく座ってました。そうすると守衛が追い出しにかかるわけです。だからうちの店で買い物すると、店の名前が入った大きなバックに商品を入れてあげてました。そうするとシルクセンターのお客さんだから、怒れないんですよ。追い出せない。守衛さんとはしょっちゅう追いかけっこしてましたよ」


「あるハンサムな外国人の男の人がうちの店に来たとき、(きんきらさんが)すごい流し目をしてね。そしたら同じフロアにある喫茶店にふたりで入っていきましたよ。真っ白で少し異様な感じだけど、外国人には異様じゃないんだろうね」


──芸子さんとか舞妓さんはみんな白粉塗るから、そのイメージがあるのかもしれませんね?


「そうかもしれないね」


「シルクセンターの上はシルクホテルなんです。女の従業員に聞いた話なんだけどね、そこ(シルクホテル)にくる娼婦はその日のうちに帰されるのに、きんきらさんだけはかならず朝食を食べて帰るっていうんです。別格っていうのかな。人を惹きつけるものがあったんでしょうね」


「シルクセンターで船具商(入港しても船から離れられない外国船の船員にものを売る商売)をやっていた人がいてね。電気製品とかが売れたんですよ。その人が関内の文化体育館のすぐそばに住んでいたとき、メリーさんが同じアパートに住んでいたっていうんですよ。昭和五十年代後半の話です」




メリーさんは芝居好き


「メリーさんは芝居好き」。こんな話を誰かから聞いた。山下公園前の県民ホールや馬車道の関内ホールに観劇に出かけることがあったというのだ。大野慶人さんは語る。


「ボリショイ・バレエが来日して『白鳥の湖』を上演したことがあるんですよ。僕は二階席から見ていたんだけど、開演するんで照明が暗転した後、白い影がささっと動いて前の方の良い席へ行ったのね。きんきらさんでした。ボリショイ見るんだ、ってショックを受けたね」


メリーさんはクラシックやオペラが大好き。見に来た舞台は「かならず当たる」といわれたため、興行主は白塗りしたその顔を見ると非常に喜んだそうだ。『横浜市史稿 風俗編』の幕末期のページには「当節はラシャメン(*引用社註 外国人の愛人や現地妻)全盛の折柄、此の女達の評判を取らない芝居は不入りであったといわれている」との記述がある。遊女と芝居の客入りにはある種のジンクスがあるのだろうか?


さて慶人さんの実父・大野一雄さんは齢百歳の現役ダンサーとして世界的な知名度を誇っている。大野作品には代表作「ラ・アルヘンティーナ頌」や「わたしのお母さん」など白塗りに女装といういでたちで踊る作品が多い。実際に写真を目にするまで、わたしが勝手に想像していたメリーさんのイメージは「ディヴィーヌ抄(*註)」に登場する老いた男娼ディヴィーヌだった。老いた肌に塗る白粉。大野さんにはメリーさんに触発された部分はなかったのだろうか。


「メリーさんと大野一雄が直説会ったことはありません。でも間接的にだったら、あるいは影響を受けているかもしれない。というのも僕は毎日メリーさんには会っていたし、メリーさんをイメージして舞台で『ハムレット』のオフィーリアを演じたりしているので(そういった)空気は持ってきたかな……。一緒に生活しているからね。大野一雄はメリーさんのアウトサイダー的な生き方には共感を持っています」(慶人さん・談)


かつて慶人さんは師匠である及川廣信さんの演出でシェイクスピアの戯曲『ハムレット』のオフィーリアを演じる機会があった。役作りに頭を痛めた慶人さんは、ふと「毎日顔を合わせるきんきらさんのことを思い浮かべた」という。


「きんきらさんが店頭に飾られた宝石を愛おしむようにじいっと見つめる様子。その様子をそのまま演じたんです」


舞台はたいへんな評判を得たそうだ。



*註 昭和三五(一九六〇)年初演。フランスの作家ジャン・ジュネの小説『花のノートルダム』に着想を得た作品。




あの頃は船がいっぱい来てたんですよ


昭和三十年代の横浜は、現在とは全く別の街だった。当時の横浜のイメージは「霧の街」(*註1)。「夜霧の第二国道」「霧笛が俺を呼んでいる」「夜霧よ 今夜もありがとう」など霧という字が枕詞のようについて回ったものだった。町並みだけでなく、自然現象までもがエキゾチックだったのだ。


「あの頃は(客船の時代だったので)船がいっぱい来てたんですよ。アメリカのプレジデントライン、オランダのロッテルダム、イギリス系の船からはニュージーランドやオーストラリアの人が来る。今は一〜二軒しか残ってないけど、ギリシャ・バー(*註2)やギリシャ・レストランが中区にたくさんあったんですよ。ギリシャ人専門の女の子がいて。艀(はしけ)にのって船まで女の子が出張サービスしたりね」


大野慶人さんは、大桟橋から異国へ旅立っていく外国人男性とメリーさんとの、熱烈な「別れのキス」の光景を見かけたこともある。


「相手はせいぜい一七〇センチくらいで白髪の外国人でした。僕が三十五くらいの頃だから……東京オリンピックの頃だ。中年のおじちゃんで年は今の僕と同じくらい、六〇くらいかな。イギリスの船だったね。あのひと(キスの相手)は船に乗った後どうしたのかと思って。ぎゃーと走ってきて熱烈にキスをして。人が大勢いる中ですごく目立ってたんですよ」


メリーさんには生涯忘れられないアメリカ人将校の恋人がいて、彼を待つために奇抜な格好で街角に立ちつづけたのだ、という説がある(*註3)。その将校はどんな人物だったのだろうか。


メリーさん行きつけのクリーニング店「白新舎」のご主人は「陸軍の将校ですよ」と即答した。


「ある写真家がメリーさんを連れて本牧で撮影したことがあるんです。陸軍の人と付き合っていたから本牧の将校クラブで写真を撮ったんですよ」


奥様が付け加えた。


「その撮影のときメリーさんが『ひとりじゃ不安だから』というので、わたしが軽自動車で本牧埠頭まで送っていったんですよ。あの人は本牧が埋め立てられて、行き場所がなくなってしまったのよね」


横浜は港町だが、戦後この街に駐留していたのはほとんどがアメリカの陸軍であった。したがってこのご夫婦が言うように、将校は陸軍に所属していた可能性が高い。


しかし同時に疑問も残る。兵隊相手の女たちには、暗黙の了解事項がある。海軍相手の女たちは海軍の男一筋、陸軍相手の者は陸軍の男一筋というのがふつうなのだ。同様に白人相手の女は白人オンリー、黒人相手の者は黒人オンリーである(人種に関しては、当時のアメリカにおける人種差別が関連していた。一度でも黒人と寝た女を白人は相手にしなかったのだ)。


ところがメリーさんの場合は、少々様子が異なっている。実は彼女は横須賀のどぶ板通りでも客を引いていたのだ(後述)。横須賀は海軍。横浜は陸軍。彼女は他のパンパンたちのようなこだわりを持っていなかったらしい。なぜだろう。



*註1 現在は年間で五〜一〇件程度しか発生しない横浜の霧。しかし山手にある横浜地方気象台で入手した「霧日数」と題された表によると、かつて霧が多かったというのは間違いない。気象台で観測が始まったのは明治三〇(一八九七)年。このころはまだ発生数がすくなく、年に五〜十数件の間を上下しているだけだが、大正二(一九一六)年から急速に霧の発生件数が増加。その後、昭和二八年ごろまでコンスタントに年三〇〜四〇件発生するまでになった。特に大正一一(一九二二)、昭和二(一九二七)、昭和一〇(一九三五)、昭和一一(一九三六)年は六〇件以上発生し、昭和一九年にいたっては、なんと八六件も発生している。昭和三十年代に入ると下降期にはいるが、それでも年間二〇〜三〇件程度発生している。


*註2 昭和三十年代から四十年代当時、日本にはギリシャからやってきた船乗りがかなり多く、横浜や神戸にはたくさんのギリシャレストランやギリシャバーがあった。そのためギリシャ旅行に行くと、日本語を話す引退した船乗りに出くわすことがあるという。昭和三三年出版の小田実・著『なんでもみてやろう』にも「ギリシャ人の船乗りは世界中どこにでもいる」と書いてある。


*註3 この説を否定する根拠はない。しかし少なくとも慶人さんが目撃した壮年の紳士は、噂の将校ではないと思われる。なぜなら軍人であれば軍用船で帰るのが一般的だからだ。このときの相手はビジネスマンだったのだろう。


なお白新舎の山崎さん夫婦によると、昭和三十年代、メリーさんと三人で大桟橋に船の見送りに行ったことがあるという。「はっきり覚えていないけど、相手は日本人の男の人だったような気がします。別れをすごく惜しんでいました。外国航路だったと思います」と奥様は教えてくれた。




パール食堂


メリーさんは横浜に来たとき、オンリーさん(特定の米兵の愛人)だったという。住処は桜木町駅にほど近い本町小学校そばの「花咲旅館」(*註1)だったらしい。だがいつの頃からか街娼に転落。日が落ちると街角に立って客を待った。


伊勢佐木町四丁目に戦後の横浜を語る上で欠かせない店があった。「根岸家」(*註2)である。物資が不足していた昭和二十年代からオールナイトで営業していた、というこの大衆酒場の前が街娼たちの一等地だった。だが彼女は根岸家前ではなく、辻向かいの「パール食堂(*註3)」という店の前に毎夜現れた。以下、昭和三〇年から三三年までパール食堂の店主を勤めていた城井友治さんの手記からの引用である。


〈『ヨコハマメリー』(*註4)という映画がこの春上映される。その宣材を貰った。五大路子さんが一人芝居で上演しているが観に行ったことはない。なんとなく白けた気分になってしまうのだ。それは我が家の軒下に立っていた娼婦のことだからである。名前は知らないが、私たちは「バラ色の貴婦人」と呼んでいた。ピンク色のうすいドレスを身にまとっていたし、ほかの娼婦とはちょっと違った雰囲気を持っていた。


私の家は、伊勢佐木町四丁目の角にあって、一階は「パール食堂」という大衆食堂の店で、二階が住居であった。四辻の向かいの奥に「根岸家」があった。店の裏の路地が「親不孝通り」で、小さな飲み屋さんが並んでいた。そこで働く店員さんたちが、始終食べにきていた。


夜中の一二時近くに店が閉まると、入り口の軒下が四つ角を見渡せる格好な場所になる。店の明かりを消しても、伊勢佐木町通りの街灯でほのかに明るい。「根岸家」から酔っ払ってふらついて出てくる客が獲物だった。うちの軒下は彼女のショバで、ほかの誰も立たなかった。そんな話をしたら、亡くなった友人のカンちゃんが、わざわざ泊り込みで見に来た。丁度フランス映画の『娼婦マヤ』が評判になった頃で、興味を持ったのだろう。二階の小窓からは彼女の動作が見え難く、睡眠不足になった思い出も懐かしい〉


城井さんによると、パール食堂の入り口はちょうど根岸家の方を向いており、出入り客を見渡せて都合がよかったという。当時は根岸家が終夜営業していたのに影響されて、周辺の飲食店も夜中の一二時まで営業していた。パール食堂は城井さんの義父が昭和二十年代中盤に開いた店だが、昭和三〇年に城井さんの代になってから午後一一時に閉店するようになったという。すでに伊勢佐木町本通りには終夜灯が設置されていたため、真夜中過ぎても通りが暗がりになることはなかった。


メリーさんが現れるのは決まって一二時前後だった。すぐに客が付くらしく長居することはなかったようだ。四つ角には娼婦が何人もいた。しかし暗黙の了解があったのか、メリーさんがいる間はだれもそばに立つことはなかった。店先は半円形の大きな軒になっていたので雨に濡れることもない。もしかしたら雨降りの日にも姿を見せていたかもしれない。


〈白塗りのメリーさんを見かけた人は多くいますが、私は知りません。昭和三三年半ばから本業のハム製造(*著者註 城井さんは鎌倉ハムで働いていた)を手伝うようになったからです。私の知っているメリーさんは、(中略)(映画『ヨコハマメリー』のなかで)施設にいた品のいいおばあちゃんにその面影を見ました。私たちが「バラ色の貴婦人」と呼んだふっくらとした可愛い女性で、街頭に立たなかったら普通のお嬢さんでした〉



*註1 花咲旅館


大正一一年創業。横浜ポートサイトホテルと名を変えたあと、経営者がかわり、昭和五六年より「三愛横浜ホテル」として営業している。伊勢佐木町一丁目に「港屋宝石舗」を構えていた渡辺さんによると、メリーさんはどこかの川っ淵の旅館に泊まっていた時期もあったそうである。この川が埋め立てられてしまった桜川だったとすれば、花咲旅館は条件通りである。なお後述する連れ込み旅館の「一力」も大岡川沿いに建っていた。


*註2 根岸家


終戦後の横浜を象徴する酒場兼大衆食堂。伊勢佐木町四丁目に店をかまえていた。全盛期は昭和二十年代中盤から三十年代前半にかけて。客層は外国人を除けば、半分ヤクザ、半分警官といった有様だった。ときとして、愚連隊と米兵との衝突が生じることさえあったという。船員やパンパンが出入りしたことでも知られるが、黒沢明の映画『天国と地獄』のロケ地の一つとしても有名。


一階がカウンターにテーブル、二階が座敷で、百人ぐらいの客は楽に収容でき、バンドが入っていたので頼めば歌うこともできた。ダンスもOKで、いまでいえば、キャバレーよりちょっと落ちた大衆酒場といったところ。注文を聞きにくるのは白い割烹着を着たおばちゃんだが、傍らに座ってお酌もしてくれたらしい。物資が不足していた昭和二十年代にオールナイトで営業していたという。


〈根岸家は午前二時を過ぎたころが圧巻だった。二時、三時、四時ともなると、あぶれた洋パンに、舶来男をくわえた日本オカマ、それにサンフランシスコ渡来の西洋オカマ、各国人種の酔いどれ、船乗り、愚連隊にヤクザ、それに加えて賭場がお開きになったところのヤクザとそのカタギの客がいっせいになだれこんできて、実に騒然と饗宴をくりひろげたものだった〉(山平重樹・著『モロッコの辰 横浜愚連隊物語』より)


集まる客もゴッタ煮なら店自体もゴッタ煮で、ビフテキもあれば寿司やラーメンもあるという和洋中のメニューをそろえ、バンドがジャズの編曲で「お富さん」を奏でていたという。


昭和五〇年以降も営業していたが、のちに倒産、失火という運命をたどっている。本書の第二章でも重要な舞台となっている。


*註3 パール食堂は閉店後、「協和」という傘屋になった。協和は転業して派手目の洋服屋になり、今秋リニューアルして「Question」と名を変えたばかりだ。建物は木造で鉄骨を入れる補強工事を行ったものの、ほぼ昔のままである。


*註4 メリーさんを主題に据えたドキュメント映画。平成一八年公開。中村高寛監督のデビュー作となった。


あのあたりは華やかな社交場だったんですよ


あらゆる人種を誘蛾灯のように引き寄せた根岸家だが、わたしの周囲にも往年を知る人物がいた。先述の大野慶人さんである。


「根岸家のオーナーの息子がよくうちに買い物に来ていたんですよ。その関係でときどき遊びに行っていました。


あるとき友だちと一緒に根岸家に行ったら友だちだけがいなくなってね。『困った』と思ったら伊勢佐木町の裏通り、曙町まで行かない辺りにある旅館で寝てたんですよ。首にキスマークつけてね。(その友だちは)結婚してるからまずい、ってんでレモンでキスマーク消して。そうこうしていたら二階から『きんきらさん』が降りてきた。ノーメークに浴衣で。メリーさんのことは『きんきらさん』って呼んでいたんです。化粧落としたのははじめて見たね。化粧落としててもすぐに分かった。


根岸家のそばに『おしどり』っていう美空ひばりの弟(小野 透)の店があって、雪村いずみとかが来てましたね。あのあたりは華やかな社交場だったんですよ」


昭和三〇年代半ばから昭和五〇年代半ばまでの二十年間、横浜の夜はナイトクラブがリードしていた。昭和二九年に「ナイト・アンド・デー」が店開きすると、「ブルースカイ」「エンゼル」「チャイナクラブ」「グランドパレス」など同業者が続々と参入。その勢いは「ナイト〜」の専属歌手だった青江三奈が「伊勢佐木町ブルース」の大ヒットを飛ばしたことで、決定的になった。社用族がはるばる東京からやって来て、たくさんの金を落としていった。おこぼれに預かる娼婦も大勢いたことだろう。




皇后陛下が立ってる、敬礼!


ところで夜毎「パール食堂」に立っていたのと同じ時期、「メリーさんを横須賀で見た」という人も少なくない。


若者の定番ファッションとして根強い人気を誇る「横須賀ジャンバー」、通称「スカジャン」を発明した店として有名な「プリンス商会」のご主人はこんな風に話してくれた。


「『皇后陛下』のことを調べに来たんですか。確かにいましたね。白い服を着てふらふらしてましたよ。この辺りでは有名でした。将校しか相手にしないんです。(街娼なのに)決まった場所には立っていなくって、現れる時間も決まっていない。ただ船が来ているときはいつもより早い時間から立っていたかな。……白い服でないときもあったけど、どんなだったかは覚えていませんねぇ」


ここでも白づくめで目立つ存在だったのだ。羽根飾りの付いた鍔広の帽子にお姫様のようなロングドレス、白いパラソルに白いレースの手袋。ビーズのバッグを提げ扇を手にしたその姿は、宝塚の舞台から抜け出してきたかのよう。


〈でも、なんていうのかしらね。服装が変わってるからじゃなくて、たとえば若い女の中に混じったとしても、どこか違う雰囲気……オーラ? そういうものがあったわねえ。どっかおかしがたい気品っていうか……。皇后陛下っていうあだ名は、服装のせいだけじゃなかったかもね。


いえ、顔はまだあんな白塗りじゃなかったわよ。むしろ薄化粧だったと思うけど、色白できれいだったわねえ〉(山崎洋子・著『天使はブルースを歌う』より 当時外人バーで働いていた女性の証言)


朝鮮戦争が始まるまで、ドブ板通りはさびしい通りだったそうだ。最盛期は朝鮮戦争時で、ベトナム戦争時にも好景気を迎えた。この二つの戦争間、つまりメリーさんが横須賀に現れたという時代、世の中は高度経済成長期に投入し、東京は租界状態から脱していた。しかし横須賀は横須賀中央駅から汐入を経て旧・国鉄横須賀駅に至る広い範囲が租界のまま。ドブ板の賑わいようも相変わらずだったという。


ドブ板通りで「テネシー」というバーを営んでいた藤原晃さんは著書『ヨコスカどぶ板物語』のなかでメリーさんに関するエピソードを披露している。


藤原 (略)昔ね、皇后陛下っていう人もいたことあるよ(笑)。


女の子A 知ってる知ってる。あんまり、体は大きくなくてね。


藤原 それがね、体格はね、七等身くらい。すらっとしてる。もの言わない。立ってる。街角があるでしょ。そこにこう、立ってるんですよ。皇后陛下の帽子かぶってるんですよ。で、メガネがね、金縁なんですよ。これ、皇后陛下のメガネだって。で、軽ーいハンドバッグか何か持ってるの。動かないの。あれ、セーラーが話しかけても相手にしない。もっと、階級が上の者じゃなきゃだめだ、って。


──見た目は何かそういう雰囲気あるわけだ。


藤原 で、そば行ってね、ひやかすんだ、ときどき。あ、皇后陛下が立ってる、敬礼! ってやってもね。こうやって立ったまんまだよ。で、そこに三十分立ってた、と思ったら、今度、場所変えて、今度あっち。


──角に行くわけね。


藤原 それで今度、将校とか階級が上の人だとね。こちょこちょ話して、すーっとどっかへ消えてくの。だからその人の前通ると、どこに住んでる、どこで泊まってるか、一切誰も調べようがない。横須賀に住んでることは事実なんだ。あれ、十年くらい立ってたかねえ。この皇后陛下は、有名だった。ああまた立ってる、っていうの。その帽子がいつも毎晩違うんですよ。金縁のメガネかけてさ。髪の毛なんかもう真っ白でしょ。日本人が話しかけても、セーラーが話しかけても、絶対、返事しない。


──ある程度、上の人じゃないとだめ。


藤原 そう。


──若いんですか。


女の子A いやあ。もう。


藤原 あの当時で四十くらいかなあ。


女の子A おばさんだったよ。


藤原 いわば、外パンだよなあ。街頭立ってっから。日が暮れると立つんだから。ああまた皇后陛下立ってる。それが毎日じゃないのよ。たまーになのよ。どこ行くか、どこ寝るのか、わからない。それからね、四、五年したのよ。そしたら、あるチーフの人が来たのよ。そしたら、パパさんよ、おまえ絶対人に言わないから教えてやる、って。何だ、って言ったら、実は、あいつと寝たらね、おちんちんがあった、って。俺、逃げて来た、って(笑)。


──男だった(笑)。


藤原 おかまだった、って言うんだ。


メリーさんを椰楡したオカマ話の一因がその派手な格好にあることは想像に難くない。白いドレスをまとったその姿は、ある種の人たちをして思わずからかいたくさせたのだろう。もし、「皇后陛下」の服装が地味だったならば、「このご時世にパンパンなんて珍しいな」という程度で誰も気に留めなかったにちがいない。横須賀でも横浜でも、人びとはメリーさんの容貌や体型には触れず、全身白づくめの(老)女としか紹介していない。つまり街娼だったのにもかかわらず、メリーさんの器量は問題とされていなかった。「世間の常識からはずれた人物である」ことだけが取りざたされたのだ。




メリーさんのブリーチ


昭和三〇年代後半。当時の流行語は子供の好きなものを並べた「巨人・大鵬・卵焼き」。カラーテレビが登場し、白黒から切り替わろうかという時期である。時まさに高度経済成長まっただ中で、日本は飢えから脱出。国民は明るい未来を信じてがむしゃらに働いていた。


その一方で横浜随一の繁華街・伊勢佐木町には、夜ごとに現れる女たちの姿があった(*註)。私宛のメールで当時の様子を教えてくれた方がいるので紹介したい。


「何度も書いてはやめていました。


私はある時期毎日のようにメリーさん(私達、皇后陛下と呼んでいました)、マリア、爆弾と呼ばれていた人達に見送られながら仕事を終わって家に帰ってきました。そこは別世界のような場所でした。彼女達が立っていることが自然のように思うほどでした。山下町時代のメリーさんでした。


あるアメリカ人は皇后陛下と結婚したいから次に来るまで英会話の学校に行かせたいと言ってました。その頃一緒に働いていた人たちは知っていると思います。とても景気がよかったところなので最後の華やかな舞台だったと思います。ギャラも最高によかったのでは。メリーさん英語は結構話してたみたいでした。マリアと言う人はモンローとも呼ばれていました。メリーさんたちが白いドレスなら彼女は黒のタイトスカートに黒のハイヒールでした。彼女も出身地を言わず横浜で他界しました」(横浜在住の年配の女性より)


街娼たちは危険と隣り合わせである。自然と寄り集まってグループを作るようになり、人望のある女がリーダーになった。そのなかに「爆弾」とか「爆弾ミッチ」とよばれた街娼のリーダー格がいた。三浦八重子さんである。オキシールで髪を金髪にし、付けまつげをしていたそうだ。


「ここはあたしたちの縄張りと決まってたのに、ある日、松坂屋から出てきたら白い宮様ドレスを着た小柄な女が立ってるじゃない。それでその女、じいっとあたしの顔を見てるのよ。なに見てんのさ、あっち行ってよって言ったら、おとなしく行っちゃったけど、翌日また来てるの。なんと、あたしとそっくりに髪を金髪に染めて!」


これが後々までつづくメリーさんのブリーチの始まりである。この当時はまだ白塗りも薄く「上品な顔の年増婦人」といった風だったという。


その三浦さんだが、街娼から卒業すると伊勢佐木町裏の親不孝通り(現在のファッションヘルス街)にギリシャバーを開いた。このエリアにはたくさんのギリシャバーが並んでいた。というのも当時ギリシャ人は人件費が安かったため、各国の外航船が水夫として雇っていたのだ(現在はフィリピン人に取って代わられてしまった)。自然、日本とはなじみのないはずの彼らが、横浜や神戸といった港町に上陸する機会は多かった。


中華街や関内エリアでレストランを数軒経営している「横浜でもっとも有名なギリシャ人男性」ジョージ・マルケジーニスさんも、三浦さんの店によく来たそうだ。彼女はもう引退してしまい、店のあった場所も現在は駐車場である。



*註 「横浜に巣食う売春」と題された昭和三七年九月九日づけの「神奈川新聞」の記事によると、このころ横浜市内に出没する街娼は約五百人いたという。伊勢佐木書の管轄である日ノ出町、黄金町、曙町付近の一帯に娼婦の八割が出没。年齢層は二十代が五十パーセント。三十代が三十二パーセント、未成年が七パーセント。


動機は「バー、キャバレー勤めからの転身」「離婚、夫が病気」「家出」「外国人のオンリーから離れて」の順となっている。


同記事によると、メリーさんのような外国人専門の女性は「常時二、三十人が伊勢佐木町通りにたむろして交渉成立と同時にタクシーでホテルに乗り付ける。街しょうが一見してそれとわかるのに、外人相手の女性は良家の子女ふうでなかなか見分けがつかない」ということである。




一切手を触らせませんでした


メリーさんは福富町にあった「白新舎」というクリーング店(現在は中華料理屋)を贔屓(ひいき)にしていた。経営者の山崎夫妻によると、当初メリーさんはご主人の友人の中島さんというクリーニング店を利用していたそうだ。ところがある日荷物を放り出されてしまい、中島さんの紹介で山崎さんの店に来るようになったという。残念ながらその時期ははっきり覚えていないそうだ。


夫妻はともに福富町育ちである。奥様は人当たりの良い方で女学校を卒業されている。後述するが、メリーさんは女学校卒業者にコンプレックスを抱いていたらしく、奥様の学歴がメリーさんを引きつけたひとつの要因だったのかも知れない。奥様は二十歳の時、横浜大空襲と終戦を経験している。一方ご主人は満州で終戦を迎え、三年間シベリアに抑留された。シベリアでは毎日、木を切っていたという。


戦後、夫妻は西区赤門町(関東学院高校の前のあたり。最寄り駅は京急黄金町)に、店を出していた。福富町は焼けてしまい、跡地は接収されてしまったからだ。その後昭和三二年に福富町へ戻ることが出来た。メリーさんは遅くとも昭和四〇年には店に通っていた。


彼女がやって来るのはきまって午後の三時か四時頃で、二十〜三十分立ち寄って帰って行くのが常だった。


「わたしは『ママ』と呼ばれてました。店に入ってくると『ママー』って。


最初はフリーのお客さんだったんですけど、店へ来ると勝手知ったる顔ですたすた上がって、奥の従業員用更衣室へ行くんです。ロッカーが三つありましたが、いつの間にか一つがメリーさん専用になっていました。ふつうはお客様のお荷物はその都度持って帰ってもらうんですけどね、あの人には置いておく場所がなかったから。荷物は戸棚一杯になるほどありましたね。


あるとき更衣室の戸が閉まったまま、いつまでも出てこないので様子を見に行ったら、壁に寄りかかって寝入っていたこともありました」(奥様・談)


メリーさんはご主人とはまったく口をきかなかった。従業員が三人いたが、お金の受け渡しの時でさえ彼らには一切手を触らせなかったという。


娘さんが小学生の頃、メリーさんが来るとじいっと見るので、よく「二階へ行きなさい」って言いました。息子さんはほとんど店に顔を出さなかったので、そういったことはなかったんですが。メリーさんが店にいるときはお客さんが表にたまっちゃって。


クリーニング屋の仕上げ作業の職人さんが、街でメリーさんに誘われたことがあった。彼女は人の顔をよく見ないで袖を引くから。


お金はかならずピン札で払いますが、他の方にしていたようなチップを頂いたことはありません。荷物の保管料をいただきたいくらいでした。


お茶くらいは出しますけど、一切飲まないんです。「口のきれいな人」という印象があります。お酒が強かったって聞きましたけど、うちでは一切何も飲まないんです。



時代は変わる


昭和三十年代後半からの十年で、街は大きく変化した。オリンピック景気とその余力で日本経済は力強く前進した。田中角栄の「日本列島改造論」が持てはやされ、海岸線の埋め立てが進んだのもこの頃だ。まず大黒町が、それから昭和三九年に旧・国鉄根岸線の桜木町〜磯子間が、根岸湾埋め立てにより開通。景勝地だった本牧や金沢にも開発の波が押し寄せ、結局、横浜から自然の海岸線は失われてしまった。工業化はすべてに優先されるべき善であり、効率が仕事を計る基準になった。


昭和四〇年の早春、アメリカ軍がベトナムの地で北爆を開始。ベトナム戦争が一気に深刻化したが、最前線基地は沖縄とフィリピンで本牧や横須賀が潤うことはなかった。


古き良きミナトヨコハマは幻のように消えさり、「闇の女たち」の時代も終わろうとしていた。ただメリーさんは時代の変化になかなか気づかなかったらしい。そんな彼女をあざ笑うかのような事件が、昭和四五年の大阪万博の頃、起きた。縄張りにしていたレストランから追い出されてしまったのだ。五大路子はこんな風に書いている。


〈メリーさんが何人ものボーイたちに路上へ連れ出されたところを見たという女性がいるというので、私と杉山先生は早速会いに行くことにした。馬車道近くで落ちあった彼女は、もちろんその当時まだ若くてその世界で働いていたそうだ。


今の神奈川県警本部の近く「スリーネーション」(*著者註1)というレストランバーだ。その地下のお店から何人もの男たちによってたたき出されるようにメリーさんは出てきたという。寒空の中、何があったかひきずり出され、ほおりだされ彼女の乱れたスカートの中から赤い毛糸の下着がみえていたという。それでも無言で抵抗することもなく、なすがままにされていたという。


「スリーネーション」の近くには、外国人が経営するレストランも多くあったそうだ。私は後日、その外国人レストランのママに会うことができた。


今までこの街の人でメリーさんを悪くいう人はいなかったのに、そのママは「えっ、メリー?」「メリーはね、うちの旦那に声をかけてきたんだよ!」と語調も強く、おっしゃられた。やはりメリーさんは外国人相手の高級娼婦だったらしい。


あるときは、高級将官のオンリー外国人の高級娼婦として帝国ホテルなどに出入していたらしいという噂も耳に入ってきた。このころ不老町の近くに住み(*註2)、ボストン・ハウスやスリーネーションがかせぎ場だったようだ〉(五大路子・著「白い顔の伝説を求めて」荘神社)


生活に余裕が出てくるにしたがって、人々はメリーさんを邪険に扱うようになった。それまでは見て見ぬ振りをしていたというのに。


街角からはジローズの「戦争を知らない子供たち」が流れてくる。横浜には多い時で九万四千人もの進駐軍兵士がいたというが、この頃になると減る一方。平和と繁栄の中でメリーさんは置き去りにされ、気がつけば齢五十を迎えていた。かつて米兵がわがもの顔でのし歩いていた伊勢佐木町も、昭年五三年、伊勢佐木モールに変貌した。同業の女性たちの多くは既に身を引いていた。日本は豊かになったが、容貌の衰えたメリーさんから客足は遠のくばかり。


皮肉なことに白い娼婦が有名になるのはこの頃からだ。作家の五木寛之は横浜に住んで三十年近いが、メリーさんのことをこんな風に語っている。


高杉—どの辺りで御覧になりましたか?


*五木—馬車道あたりでも会っていましたし、それ以後もずっと見かけてるんです。


高杉—あそこは今でもメリーさんのお気に入りの場所のようです。このニューグランドホテルの旧館ロビーにも五年程前まではよく来ていたそうですが、最近はぱったりと見えないようです。


足立—この三年くらいもう広範囲な動きはしないようですね。


*五木—西口の高島屋の前でも会ったことがあるな。取りあえずその頃にはもう伝説のようにメリーさんの話は物語として成立してましたから、あ、あれが有名なメリーさんか、っていうふうに思ったりしていた。


森 —それはいつ頃のことでしょうか?


*五木—六十年代か七十年代かな、もっと若くって本当に現役っていう感じでね。この写真集では白い服が多いようですけどもっと派手な色の服で。


(中略)


僕が若い頃に町で見掛けた時も、あの人は娼婦なんだよって言われて随分年増の娼婦だなってそのことに奇異な感じはしませんでしたね。そう言われてみればそうかって思う位ですから。今は例えば皆ある種奇異な感じで受け止めるでしょうけども、そうではなくて実際に肉体を持った女性としてまだ現役っていう色香は残ってましたから。


(中略)


(後年のメリーさんは)背骨が曲がって上半身から下半身がまるっきりいわゆる老人なんだけど、スカートの下から出ている足が意外とふっくらとすんなりとしててすごくエロティックだったんです。一瞬、両方のアンバランスと言うかその違和感の中に妖しい物を感じましたね。この足は絶対現役の足ですもの。娼婦として成り立つ足なんですね。この顔にこの足が現存してる。


(九四年九月の対談 森日出夫写真集『PASS ハマのメリーさん』より)


生きながらにして伝説となった娼婦、メリーさんの服は白だけではない。鮮やかな黄緑色のドレスや深紅のコートも大好きだ。めがねを掛け、大きなカメオのブローチをつけて山手の奥様を気取る。しかしいつの頃からだろう。メリーさんといえば白い服というイメージが出来上がった。


金髪、白塗り、白い服は舞台化粧。


盛装を凝らし、日傘を持って馬車道を散歩するメリーさんは、古き良き時代のお姫のイメージを身にまとう。だがその姿はもの狂いのようでもあった。洋妾(ラシャメン)のなれの果てというイメージを演じているかとも思われた。



*註1 正式名称は「クラブ・スリーネイション」。昭和一三年に完成した「ヘルムハウス」の地下にあった(横浜市中区山下町五四)。ヘルムハウスは鉄金コンクリート造地上五階地下一階のホテル兼アパート。現在建設中の新県民ホールの一角に立っていた。つまりシルクホテルやホテル・ニューグランドと同じ地区である。昭和五三年に県警がヘルムハウスを買収。同年ビルの取り壊しに伴い閉鎖。同店は二四時間営業で外国人御用達の店だったが、日本人も出入りできた。余談になるが、磯子在住の郷土史家・葛城峻によると、このヘルムハウスには勝新太郎一族が住んでいたことがあるという。 


*註2 前述「必ず胸元から一万円のピン札を出すんです」という節の大野慶人さんの証言を参照=「シルクセンターで船具商(外国船の船員目当ての商売。船から離れられない船員にものを売る)をやっていた人がいてね。電気製品とかが売れたんですよ。その人が関内の文化体育館のすぐそばに住んでいたとき、メリーさんが同じアパートに住んでいたっていうんですよ。昭和五十年代後半の話です」


「三晃」の柴田さんは「メリーさんは松影町の辺りのアパートに住んでいました。シルクセンターのスーベニアの店でメリーさんがランタンを買ったんですが、店の人と一緒に届けに行ったことがあるんですよ。古いアパートの一階に住んでいました。ドヤではなくきちんとした月極のアパートでしたよ」と回想している。


東京、カッペね


昭和五七年一一月。横浜駅前に「モアーズ」が出来たときのことだ。コピーライターの中畑貴志が爆弾のようなキャッチフレーズを打ち出した。


(「モアーズ」の開店広告 AD:ビーンズ)


「東京、カッペね」


「大阪、イモね」


予算の都合上、露出量が少なかったため、強い表現を使わざるを得なかったがゆえの苦肉の策だったが、ハマッ子は狂喜した。およそモアーズに縁のなさそうな山手の奥様方が足を運び、市長が好意的なコメントを寄せた。地元メディアにも盛んに取り上げられた。


昭和五十年代後半まで、ハマッ子には不埒なまでのプライド高さがあった。


「俺たちはマックが出来る前からハンバーガーやピザを食べていたんだぜ」


「流行の発信はこの街から。横浜で流行ったファッションが数ヶ月遅れてようやく東京で流行るのさ」


「どうだい、この異国情緒溢れる町並みは」


といった外国由来のものにいち早く触れてきたことから来る、ささやかな自負心。


そこに米軍の町特有の優越感(とある人はこれを「国道一六号線沿いの奇妙なプライド」と呼んでいた)が加わった。


上記の広告が話題になったのと同じ頃、本牧基地の返還が決まった。横浜から基地の街特有のエキゾチズムが失われようとしていたのとまさに同じ頃、もう一つの返還も行われた。三菱重工の工場閉鎖と移転である。


新都心みなとみらいはかつて三菱の造船工場であった。野毛の街角からは造船所のクレーンが見え隠れしていた。ドックから始業、正午、終業の一日三回鳴り響くサイレン。その轟きは、北は小机から南は杉田まで届くほど大きかったという。夕暮れ時になると一日の疲れを癒せとばかりに工員たちが、野毛や高島町に繰り出す。ハマは今よりも無骨だったが、潮の香りの似合う街だった。その風情もいまや過去のものになろうとしていた。


横浜は自らの手で何も生み出してこなかった都市だ。港から舶来品を降ろし、東京へ受け渡す。この街の役割はそれだけだ。人びとは評価の定まったものにしか関心を示さなかった。したがって横浜は何ら新しいものを生み出すことが出来ず、大都市でありながら単なる中継地に甘んじていた。しかし日本と西洋が出会うその過程で魅惑的なドラマが生まれてきた。海の向こうへのあこがれ、運命の出会い、せつない別れ。この街で唯一にして最高の生産品はロマンとロマンスだった。


一方マスメディアは「町の奇人たち」の話題を盛んに取り上げていた。きっかけとなったのはラジオ番組「オールナイトニッポン」でタモリと笑福亭鶴光によって仕掛けられた「なんちゃっておじさん」ブーム(*註1)だ。今で言う都市伝説ブームのハシリである。この現象に引きづられるかたちでマスメディアは「町の奇人たち」の話題を盛んに取り上げた。


百円玉おばさん、歌舞伎町のタイガーマスク、西武池袋線の水戸黄門おじさんなど様々な「奇人」が面白おかしく取り上げられたが、「横浜代表」の一人として取り上げられたのがメリーさんだった(彼女のほかに取り上げられたハマの有名人に、オペラおじさんやマラソンマン、ポンポンおじさんなどがいた)。


喪失感と町の奇人ブーム。この二つが重なった結果、メリーさんは突如脚光を浴びた(*註2)。


「普通の街」になってしまった横浜。知らず知らずのうちに、町は「よそにはない物語」を必要としていた。その結果、皆が好んで飛びついたのが「外国人相手の娼婦」という来歴を持つメリーさんだ。


奇しくも終戦後の横浜には「港のマリー」と呼ばれた女たちが何人もいた。すでに忘れ去られた存在だったが、年配者は両者を結び付けて語る。さらにさかのぼれば、開港以降昭和四〇年ごろまで、横浜には外国人専門の娼婦たちの系譜が脈々と続いていた。メリーさんはこの系譜の末裔、横浜裏面史のアイコンである。



*註1 タモリと笑福亭鶴光がつくりあげた架空の人物。電車やバスの中でぶつぶつと独り言を呟きながら周囲の視線を集め、両手を頭の上にかざして丸をつくり「なーんちゃって」と言う。


*註2 当時男性週刊誌上で「大阪釜ヶ崎に住む七十代の現役娼婦・神田千代」のことが話題になっていた。そのことも関係している可能性がある。


年老いても街に立ち続けた理由。これはメリーさんの謎の一つとされてきたが、釜ヶ崎の老娼婦の記事を読むとなんとなく納得してしまう。仕事は若さと生き甲斐をあたえてくれるのものだ。売笑以外の仕事をしたことがない人間にとって、仕事といえば春をひさぐこと。彼女らは自分らしくありつづけるために仕事を続けていたに過ぎない。実際、若い頃とくらべるほどではないにせよ、それなりに需要があるようなのだ。


老齢の娼婦の存在自体は決して珍しくはない。日本の場合は昭和三三年まで公娼制度が存在したため、老いた娼婦はやり手婆になるという第二の人生へのレールが敷かれていた。したがって五〇年前までは制度として老いた娼婦は存在し得なかった。しかし売防法以降、自分を支えてきた稼業から足を洗えない女たちが散見されるようになる。前章で取り上げた「メリケンお浜」も七三歳でなくなるまで生涯現役の娼婦だった。


欧米には老いた娼婦をテーマにした芸術作品が多い。たとえば、ミュージカルの「キャッツ」は「西欧では最もけがらわしいとされる老娼グリザベラが、最も聖なる者として輝き召されていく救いと生まれ変わりのドラマ」である。シャンソンのテーマとして取り上げられることも多く、美輪明宏はコンサートでしばしば老いた娼婦を演じている。




伝説の幕開け


メリーさんがはじめてメディアに登場したのは「週間ポスト」の昭和五七年一月二九日号である。



この記事によると、メリーさんは大正一〇年生れで現役の娼婦。終戦後まもなく焼け野原の銀座・服部時計店前に立ったという。伊勢佐木町に居着くまでに横須賀や横浜市内を転々。米軍将校を相手にし、在日米軍基地に二八年間住んでいた。日本人と一度、米国人と一度結婚したが、現在は子供も身よりもいないという。稼業を始めてからこのときまでの三六年間に二三回の補導歴がある。ただし覚醒剤やヒモには縁がなかったから逮捕歴はごくわずかしかない。


全身を白く塗るのは「年でしょ。肌が荒れて困るから」だそうだ。


終戦後をそのまま引きずるメリーさんは、街の噂となり歩く見せ物と化した。白塗りの顔に白い服。どこから来たのか、誰も知らない。いつからいるのか、誰にも分からない。謎めいた存在に触発され彼女の歌が昭和五七年〜五八年の一年間で五曲も生まれた(*註)。この時期を「第一次メリーブーム」と呼ぶことにしよう。


*「夜明けのマリア」(映画「コールガール」の主題歌)


 作詞・康珍化(かん ちんふぁ) 歌・根本美鶴代(ピンクレディーのミーちゃん)


*「港のマリア」作詞作曲・歌・石黒ケイ 


*「横浜のマリー」作詞作曲・歌・榊原まさとし(ダ・カーポ)


*「マリアンヌとよばれた女」作詞・阿木燿子 歌・デイブ平尾(元・ゴールデン・カップス)


*「昨夜(ゆうべ)の男」作詞・なかにし礼 歌・淡谷のり子


第一次ブーム後、それまでメリーさんを知らずにいた十代〜二十代の若者の間で、彼女は「正体不明の老婆」として噂になり始め、若者向けのタウン誌「浜っ子」で再三取り上げられるまでになった。それまで「クレオパトラ」「皇后陛下」「白狐様」など各自が好き勝手に呼んでいた通り名も「(港の)マリーさん」に収斂していき、昭和が平成に変わる頃を境にして「メリーさん」に落ち着いた。世間の目耳を集めるようになってからも、メリーさんは繁華街の雑踏に立ち続けた。



*註 映画『ヨコハマメリー』レイトショー初日、舞台挨拶に立った渚ようこは「宇崎竜童から直接聞いた話」として「昭和五〇年の『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』(作詞・阿木燿子、歌・ダウン・タウン・ブギウギ・バンド)のモデルとなっている人物って、じつは、メリーさんのことなんですね」と語っている。この発言が正しいとすれば、メリーさんをモチーフにした最初の歌は宇崎竜童がつくったということになる。




象徴的な符合


噂が広がるのに反比例するようにメリーさんの身なりは薄汚れはじめ、異様さが一層際だつようになった。折しもバブル崩壊の時期だ。平成二年に入ると、強制送還された黄金町のタイ人女性がエイズに感染していることが明らかになり、娼婦への偏見が目に見えてに高まりだした。


それまでメリーさんは馬車道の「相生」という喫茶店をひいきにしていた。創業八〇年の老舗で八割が常連客。「この人が何を食べ、何を飲むのか」店員が把握しているような所だった。彼女は化粧もここのトイレでするほど入り浸っていたし、店も周囲の人もそれに対して苦情など言わなかったようだ。


ところがエイズ騒ぎをきっかけに彼女はマイカップを持参してきた。「これ、あたし専用にしてほしいの」と言って。きっと細やかな神経の持ち主だったのだろう。それでも居づらくなったのか、使い捨てカップのファーストフード店「森永ラブ」に鞍替えしたのだ。


しかしこの店もまた安住の地ではなかったようだ。ここで六年間アルバイトをしていたという女性に聞いた話だが、メリーさんはデパートの紙袋をいつも三つ持ってやって来たという。そして座席に置いたまま出かけてしまうことが多かったそうだ。どうも「松坂屋」など近所の店に行っていたらしい。だから腹を立てているマネージャーがいた。


ある晩のこと。メリーさんは座席で横になって寝込んでしまった。寝込んでしまうのは初めてではなかったが、閉店の時間になっても起きあがる様子がない。マネージャーはしびれをきらせた。メリーさんの全財産が入った紙袋を表に放り出すと「ババア、出てけ。ここはホテルじゃないんだ」といって追い出した。「ごめんなちゃい、ごめんなちゃい」メリーさんは手をばたばたさせながらあわてて出ていった。


「森永ラブ」に通い始めたのと同じ頃、やはりエイズを理由に行きつけの美容院からも入店を拒否されている。


徐々に行き場をなくしていくメリーさん。白内障も進行し、街を歩くことさえだんだん不自由になっていた。メリーさんが三〇年以上通い詰めたという伊勢佐木町の化粧品店「柳屋」の社長はいう。


「あるとき階段で転んで背中が曲がっちゃったんだよ。骨粗鬆症じゃないかと思ってるんだけどね。それまで背筋はすっとしていてね。背筋が曲がってから声がか細くなって。服も薄汚れてきた」。


年取ってからメリーさんは二度救急車で運ばれている。入院先は横浜橋商店街にある野村病院だった(*註)。残念なことに病院の規定でカルテは退院後五年して破棄してしまったという。担当医も看護士も職業柄入れ替わりが激しく、当時を知る人は残っていなかった。従って入院に関する詳細は不明だが、収穫もあった。興味深いことに、チャブ屋(日本在住の外国人や、外国船の船乗りを相手にした戦前の「あいまい宿」の俗称)の名物女郎・メリケンお浜が乳ガンで掛かり付けになっていたのも、この野村病院だったのだ。戦前を代表する名物女郎と戦後を代表する高級娼婦が同じ病院に通っていたとは! なんとも不思議な偶然だが、この二人は晩年の様子も似通っていた。


誇り高き高級娼婦の晩年は、ホームレスだった。キャスターのついた大きなボストンバッグを曳き、両手に紙袋をぶらさげてさまよい歩く。その顔は壁のように白いが、毅然とした気品が感じられた。あちこち寝ぐらを変えたすえ、ついに福富町のとある雑居ビルの廊下に居座ってしまった。そこはGMビルという水商売のテナントビルだ。この章の冒頭で紹介したライターの末藤さんが取材を行った場所である。


ビルのオーナーはメリーさんを心底嫌っていた。「あの人は無許可で長期間寝ていたんですよ。大体二年くらいだと思います。許可を得ていた、という人もいますがウソです。わたしは管理人を通じて何度も追い出そうとしたんですが、頑固に居座っていたんです。


彼女をお芝居にした人がいて『天使のような目が…』『気品があって…』というけれど、なにを言ってるんだか! あの人は売春婦ですよ。売春婦をヒロインみたいに扱って!


あの人が客を引いているところを見た人は、あまりいませんけどね。客を引くときはしつこいですよ。袖を強引に引いて。わたしはあの女優さんには常々抗議しようと思っていたんですよ」


このビルに寝泊まりしていた時代は長く、エレベーターガールを買ってでている姿がなんども目撃されている。酔狂なお客に抱きつかれたり、チップを渡されたりすることもあった。深夜一時頃、店がはねると七階にあがり、廊下に出した二つの椅子を向かい合わせに並べて横になる。店の女の子のプレゼントで「メリーさん大好き」と中国語で書いてある椅子だ。


あるときわたしは店の灯りが消えたGMビルの七階に行ってみた。緑色に光る非常口のサインが唯一の光源で、あたりは一面の漆黒。冷え冷えとしたコンクリートの床。狂おしいほどの静寂。とても長居出来る環境だとは思えなかった。


不安定な生活のせいか、メリーさんは徐々に体調を崩していった。GMビルのトイレで血を吐くこともあった。



*註 階段で転んで骨折したのは昭和六〇年から平成元年頃のことだが、入院費がどこから出ていたのかは謎である。晩年のメリーさんは元次郎さんから毎週一万円ずつ渡されていた「お花代」と、GMビルのエレベーターでもらうチップで生活していた。入院費用はとても捻出できそうにない。考えられるのは実家からの援助であるが、実際はどうだったのだろう。




幻の映画


メリーさんをはじめて大々的に取り上げたのは、「テレホンセックスを発案した」と称する性風俗レポーターでタレントの清水節子によるドキュメント映画だ。横浜にランドマークタワーが開業した平成五年のことである。


メリーさん本人の協力を得て撮影されたその作品は『今晩いいでしょ 港のメリー』と題された。撮影監督は映画『たそがれ清兵衛』や坂東玉三郎・監督作『夢の女』の長沼六郎。脚本は映画『同棲時代』『愛と誠』『青春デンデケデケデケ』、テレビ『ザ・ガードマン』『必殺仕事人』など一千本あまりを書き上げている石森史郎(いしもりふみお)で、そこに映画初監督の清水節子が参加する、という布陣だった。制作陣の中には『濱マイク』シリーズの仕掛け人である福寿祁久雄(ふくじゅきくお)の名前も見受けられる。


〈映画制作の目的は、好奇心の目で彼女の生涯を暴いていくことではありません。ただ、どうして娼婦になったのか、今はどんな暮らしをしているのかをカメラに納めて、ドラマチックな女の一生をありのまま映像に記録したいのです〉(『スポーツニッポン』平成五年八月一八日より 清水節子の発言)


メリーさんも撮影の初日はトレードマークの白装束ではなく、おしゃれな紫の服を着て現れ、「白人さんは良いわよ」と発言するなど現場を楽しんでいた様子だった。しかしプロデューサーの資金着服やテレビ局への無断売り込み発覚などにより、チームは空中分解。撮影途上のフィルムは第三者の許に預けられた。


関係者らの最近の発言によると、このフィルムは行方知れずだという。しかし平成一一年に福寿さんを取材したときは「金庫に保管している。鍵は私も含めた三人の関係者が共同で保管している」という話だった。どうも腑に落ちない。残念ながら作品内容の詳細も、清水氏や福寿氏が判を押したようにコメントを避けるため、不明である。



第二次ブーム


メリーさんが家事をする姿はちょっと想像出来ない。あまりにも浮世離れしているからだ。私生活は決して見せない人だった。もし仮に肉親から身の上を聞く機会があったとしても、実際は大しておもしろくないかもしれない。興味深いのは生身の彼女ではなく、むしろ彼女の周りで起きた現象の方である。


昭和五七年に発表された例の六曲から一〇年あまり。幻に終わった映画の企画を皮切りに、ふたたびマスコミにメリーさんが登場するようになった。


平成六年、永瀬正敏主演の人気映画『濱マイク』シリーズの第二作「遥かな時代の階段を」に坂本スミ子扮するメリ−さんが登場。永瀬演じるマイクを過去の横浜の象徴である「白い男」の許へ案内する役回りであった。


平成六年、故・中島らもが短編小説『白いメリーさん』を発表。三年後、小説とは内容を変えて作家自らが作品を舞台化した。


内容の方は「夜寝る前に『メリーさん、メリーさん、メリーさん』と三回唱え『どうか白くしてください』とお願いするとメリーさんが現れて、髪が白くなるまで怖がらせる。呪文を唱えた女子高生が白粉で白く塗りたくられ、メッタづきにされた死体で発見される」という怪談じみた話だった。


平成八年。五大路子がメリーさんをモデルにして『横浜ローザ』の上演を始めた。それまで「正体不明の変な婆さん」と言われていたのが、「外人専門の娼婦で苦労した人」だという認識に変わった。


また平成一〇年一一月〜平成一七年三月まで横浜在住の漫画家、故・中尊寺ゆつこが雑誌『bmr(ブラックミュージック・レビュー)』にアメリカ黒人の人気女性歌手メアリー・J・ブライジとメリーさんを掛け合わせた『ハマのメアリーJさん』を連載する。デフォルメされたメリーさんは、生身の彼女を知らない若い読者たちからも愛された。

 

メリーという名の由来


あるとき野毛のバーで、名物ママとメリーさんの話をした。横浜と野毛の歴史やありようについて一家言持っている人物なので、きっとおもしろい反応が返ってくるだろうと思ったのだ。数日後、ママがブログに興味深い話を書いてくれた。彼女が子供の頃、こんな言葉が普通に使われていたそうだ。



メリケン粉→小麦粉


メリケン波止場→大桟橋


メリーさん→英語ができ、外国かぶれな人。または外人好きな人のこと



「メリーさん」という言葉は、特定の人物を指す言葉ではなかった。一般名詞だったのだ。


メリーさんの写真集や映画が認知されたので、日本中が「メリーさんとはあの映画に出てくる娼婦のことだ」と勘違いしてしまった。「メリー」や「メリケン」は「アメリカン」からきている言葉、「外国に由来するもの」という意味だ。


その証拠としてママは「あるとき、終戦直後から昭和三十年代にかけて日本郵船の事務をやっていたおばさんで『メリーさん』と言われていた人を知りませんか、と尋ねられたことがある」という自身の体験談を披露している。このメリーさんはきっと英語が堪能だったのだろう。


シルクセンターの宝石商、柴田さんもよく似た話をしてくれた。


「運輸業のジャパンエキスプレス(*註)で働く沖中士(荷揚げ人足。船荷を担いで船に架けられた板の上を上り下りする)のなかにひとりだけ女性がいたんです。美人じゃなくてどうってことのないおばさんでしたが、キャリアウーマン的な人でしたね。沖中士は荒っぽい仕事で女が就くなんて考えられない時代でした。


バリバリ仕事が出来て、英語がぺらぺら。『あの人に任せておけば間違いなし』と言われていて。旅客手荷物運搬もしていたので、外国人のファンやお得意さんもいましたよ。わざわざ彼女を指名してくるんです」


昭和三十年代から四十年代にかけて波止場で「メリーさん」といえば、その人をさしていた。


「わたしたちは(白塗りの娼婦の方は)メリーさんとは呼ばないんですよ。メリーさんといえば、やりての沖中士の方を指していましたから。メリーさんの名前が娼婦と結びつけられていると知ったら、(ジャパンエキスプレスのメリーさんは)どう思うかなぁ」


私は外国人と付き合いのある女性たちが「メリー」と呼ばれていた理由に関して、別の説明も聞いたことがある。


昔の日本人は外国人女性の名前をあまり知らなかった。そこで日本で言うところの「花子」のような、一般的な外国人女性を指す言葉として「メリー」や「マリー」という言葉を使っていた、というのだ。つまり「メリー」とは外国人女性、あるいは外国人の妾などを指す隠語だったというのである。


さらにもうひとつの由来も考えられる。「天井桟敷の人々」で有名なマルセル・カルネ監督の映画「港のマリー」だ。映画の公開は昭和二四年。原作はジョルジュ・シムノンで昭和一三年発表である。主演は当時四五歳で、日本のファンも多かったジャン・ギャバン。ニコール・クールセル演じるマリーは海辺の食堂のウェイトレスだ。貫禄たっぷりの彼が、きまじめな若い娘に惹かれていく。


この映画の人気にあやかったのであろう。戦後の混乱期、さっそく「港マリ」なるストリッパーが登場している。その後、少なからぬ表現者が「港のマリー」を造形してきた。夏木マリはこんな風に唄っている。



「港のマリー」(作詞・作曲:小西康陽)


誰もが港町のカフェで


お酒ばかり呑んでる


物憂げなマリーに恋をするけど


船乗りに口笛吹かれても


どうせマリーは今夜も誰も愛さない



昔暮らした男は


ある日なにも言わずに


遠い国へ出て行く船に乗ったの



昭和五七年に入っていくらもしない頃、メディアが横浜に住む一娼婦を「港のマリー」と呼びだしたことから、マリーは特定の人物を指す言葉になってしまった。


だが「港のマリー」の物語自体は、メリーさんとハマッ子の共作なのだ。彼女は自分の人生を最後まで企画・演出した。私たちはその天才的な演出に惹かれ、虚言と真相を織り交ぜながら語り継いでいく。



*註 現在は純然たる運送会社になり、東京に移転してしまったジャパンエキスプレスだが、当時は船客送迎、旅客手荷物運搬(後の海外引越業に発展)、運送業、貨物保管から移民乗船斡旋業まで幅広く手がける横浜の会社だった。




生身のメリーさん


「メリーさんの思い出といえば、すごい外反母趾だったということでしょうか。あの足を見たとき、『この人は、大変な人生を送ってきたんだな』と思いました。


メリーさんは二回ほど、見かけたことがあります。


一回目は伊勢佐木モールから関内駅へいく横断歩道で、私の前をレースの日傘を杖代わりにして歩いていました。白のレースのドレスに白のハイヒール、多分白い帽子もかぶっていたと思います。腰が九十度ちかく曲がっていたで、『お婆さん』であることがわかりました。


『なんで、このおばあちゃんは、あんなハイヒール履いてんの?』と自分が足が痛くてハイヒールが履けないからでしょうか、非常に不思議に思ったのを覚えています。仕事場に帰って、『こんなお婆さんを見た』と話したところ、『それは、メリーさんでしょ』と年配の人が教えてくれました。


二回目は、関内あたりの銀行から出てくるメリーさんにばったり。銀色の合皮のパンプスに銀色のレインコート、そしてあのお化粧。『顔をジロジロ見てはいけない』ととっさにメリーさんの足元に視線を移すと、パンプスを履いた足の指がはっきりと変形しているのが、わかりました。それがとても痛々しく思えました」(数年前、横須賀に住む三十代の女性からわたしに送られたメールより)



「メリーさんは入れ歯をしていたよ。その当時伊勢佐木町にあった『有隣ファボリ』という店でバイトしていたんだけど、二階の扉を開けたら目の前にメリーさんが立ってたことがあってさ。『入れ歯が壊れたから接着剤を貸してくれ』って。アロンアルファを貸したら、取れてしまった入れ歯の歯をくっつけて直していたよ」(私が知人から直接聞いた話)



「メリーさんが触った所は白粉でみんな白くなる。化粧の脂がすごくて落とすのがたいへん」(私の友人がデパートで働いていた母親から聞いた話)



「フォークの持ち方が独特で、ひじを張って水平にしたまま上げ下ろしする純西洋風のスタイルだった」(「森永ラブ」で六年間アルバイトしていた女性の証言)



「私がメリーさんと親しくしていたのは、平成二〜四年頃だったと思います。私自身が転職をして福富町から新横浜の会社へ移るまで、付き合いがありました。


それ以前からメリーさんの存在は知っていました。なにしろ、小さい頃から横浜のダイヤモンド地下街や高島屋で目撃していましたので。


その頃、私は福富町仲通りに面した『鰐』のあったビルの四階の会社に勤務していました。『鰐』は福富町仲通りの入り口付近に店を構えていたクラブです。老舗でしたが今はもうないですね(*著者註 看板には大きく『鰐』と書いてあるが、正確には『ナイトアリゲーター』という名のスナック。現在も営業中)。


夜になるとGMビルの地下にあった『ダン』というお店や上の階にあった『よし乃』という店に通ったものでした。


メリーさんとは週に二、三回は会っていました。当時はGMビルで寝泊りしている状態だったと思います。GMビルに遊びに行くと毎回のようにメリーさんがいて、手を振りながら微笑んで貰っていました。エレベーターに近づくとすっと手を伸ばしボタンを押してくれ、帰りには小さな高い綺麗な声で『お帰りですか?』と声をかけてもらっていました。


『メリーさんに声かけられるようになったら一人前の男だな』なんて言われたりもして、少しお酒の入った私はメリーさんに抱きついたり、握手したり。そんなことしても嫌な顔ひとつしないで、エレベーターからビルの際までの数メートルを後ろからついてきて微笑んでもらっていました。


メリーさんの手は綺麗な肌をしていました。手には白粉をつけた感じはなく、素の状態でした。シワはありましたが、手そのものは柔らかかったと記憶しています。それにくらべて少しのびた爪は、真っ黒で垢のたまったような爪でした。香水の匂いは感じませんでしたね。


横浜西口の『ミンク』というお店のママとメリーさんと三人で、『ダン』に一緒に飲みに行ったこともあります。私とママはウイスキーの水割りを飲んでいましたが、メリーさんに、


『水割りでいいです?』っと聞いたら『いいえ』と。


『ジュースがいいです?』と聞いたら『はい』。


『コーラでいいです?』と聞いたらにっこり『はい』。


だからメリーさんはコーラを飲んでいました。ほんの一口二口、口をつけていただけで、ほとんど手をつけていない状態だったのを覚えています。アルコールはまったく飲みませんでしたね。酒の席でもメリーさんはニコニコ笑ってうなずいたりしていただけです。積極的に話をすることはなく、たまに『はい』とか『いいえ』とか声に出すくらいでした。


福富町のGMビル、今では日本人のお店はめっきり少なくなりました。しかし、メリーさんがいた当時は、まだ人情のあるお店やお客さんが多かったんです。


メリーさんがいなくなって故郷の老人ホームに入ったという話は、福富町の古いお店では皆知ってる話ではありました。でも『どこにいるのか』ということは、誰も言わない話でした。ただ『故郷に』と言うだけで」(数年前、四十代前半の男性からわたしに送られたメールより)



「日出町近辺でヤクザの若い衆に挨拶されていたのを見て、凄く高貴なオーラというか威厳を持ってる人だという印象を今でも思っています」(数年前、三十代の男性からわたしに送られたメールより)



「私は昭和三三年生まれで、今年で四五歳になります。一五歳〜一九歳まで、横浜市中区の若葉町に住んでおりました。メリーさんを見掛けるのはいつも伊勢佐木町でした。街中で見掛けることもあれば、横浜銀行の中で見掛けることもあり、ある時は喫茶店で見掛けたこともあります。喫茶店で見掛けたとき、メリーさんの生の声を初めて聞きました。


作ったような甲高い声で、『サンマ定食ちょうだい』とオーダーしていました。そういう定食もメニューに載せている喫茶店でした。洋風のメリーさんがサンマ定食を頼むのはちょっと意外でしたので、今も凄く強烈な印象として覚えています。勝手にイメージを作り上げていたので、メリーさんには洋食がお似合いだと思っていたのです」(数年前、四十代後半の女性からわたしに送られたメールより)



「自分の話は全然しなかったけど、うちの母には少ししていたかな。盆暮れのつけ届けは必ずしていたね。うちの方でも石鹸なんかを送っていたし。


いつもスーと入ってきてね。買うものが決まってるから最短距離をまっすぐ行くのね。『資生堂』の塗りおしろい(五〇〇円)、芸子さんがうなじに塗るやつなんだけど。それからアイライナー(『コーセー』 墨 四〇〇円)、サニーサイドアップ(脱色剤)。この三つだね。銀行でお金をおろしてから来ていたから、いつもピンと張った千円札だったよ。きちんとした人だと思ったね」(メリーさんが三〇年通った化粧品店「柳屋」のご主人)



「白洋舎というクリーニング屋に服をたくさん服を預けていて、更衣室で着替えさせてもらっていたそうです。預けた服は『第二イブニングを出して』などといって取り出してもらって。迷惑な客でシミがあると『すぐやり直せ』と言っていたって」(メリーさんの友人、永登元次郎さん)



「彼女は優しい人でした。でもわがままな所もあって、わたしが『今度外国に行くよ』というとお土産にシャネルの五番をねだったんですよ」(メリーさんを撮影した写真家・常盤とよ子さん)




真っ白い履歴書


メリーさんは過去を語らない人だった。しかし断片的にではあるが、周囲の人間に自らの来歴を漏らすことがあった。たとえば先に紹介した「週間ポスト」の記事。


〈メリーさんは大正一〇年生れで現役の娼婦。終戦後まもなく焼け野原の銀座・服部時計店前に立ったという。伊勢佐木町に居着くまでに横須賀や横浜市内を転々。米軍将校を相手にし、在日米軍基地に二八年間住んでいた。日本人と一度、米国人と一度結婚したが、現在は子供も身よりもいないという。稼業を始めてからこのときまでの三六年間に二三回の補導歴がある。ただし覚醒剤やヒモには縁がなかったから逮捕歴はごくわずかしかない。


全身を白く塗るのは「年でしょ。肌が荒れて困るから」だそうだ〉


清水節子の監督映画「今晩いいでしょ 港のメリー」撮影中には


〈桃の花がきれいに咲く故郷の村の話、貧しい農家に生まれ、小学校六年のとき金持ちの家にもらわれていったこと、神戸、大阪、芦屋を転々としたこと、東京と横須賀で外人兵相手に躰を売っていたこと……〉


などをぽつりぽつりと話したそうだ。


タウン誌「浜っ子」平成二年一一月号には、記者がメリーさんにインタビューを敢行し、


〈メリーさんが横浜に来たのは三〇年くらい前だという。それまでは進駐軍でダンサーをしていた。白いドレスが好きなのは、ダンサー時代からである〉


という話を掲載している。


歌手でメリーさんと親しくしていた永登元次郎さんは、メリーさんの来歴をこう語っている。


〈岡山の山間部、宮本武蔵の生まれ故郷からほど近い村の出身。主要産業は林業でメリーさんの実家も材木屋だった。大正生まれなのに女学校を卒業しているので、きっと戦争前は金持ちだったのだろう。子どもは多分いなかったと思う。旦那は戦死したのだろうか?


材木屋の経営は苦しかった。終戦の翌年二五歳のとき、芦屋で料亭の仲居になった。しかし「料亭」とは名ばかり。実際は米軍将校相手の慰安所で仲居は慰安婦だった。ここでメリーさんはひとりの将校の専属(オンリーさん)となった。彼が東京に移るとメリーさんも一緒に東京で暮らし始めた。住まいは国会議事堂裏の「グランドホテル」。


この頃が幸せの絶頂で、その日の暮らしにも困る庶民を尻目に基地に入りびだりパーティー三昧の暮らしを送った。しかし朝鮮戦争が勃発すると将校は現地へ。終戦後も日本へは戻らずアメリカの家族の許へ帰って行った(*註1)。独り残されたメリーさんはすでに三十代半ばだった。


彼女は新橋駅前の第一ホテル(*註2)で米人高官相手の高級娼婦に転じた。ここは焼け残った数少ない西洋風のホテルで若手将校たちの宿舎になっており、陸軍の婦人部隊(WACワック )の宿舎から近かったため頻繁にパーティーが開かれていた。一年たってブタ箱に送られたものの、めげずに今度は横須賀に移った。神戸で三年、東京で七年それから横須賀でも外国人専門だった。横浜にやって来たのは東京オリンピックの前年。四二歳のとき。


どうして芦屋に入ったのか、なぜ故郷を出たのかは訊けなかった〉


躰を売っているからといって心まで売っているわけではない。わたしは可能な限り裏付け調査を行った。その結果、彼女の話は信憑性に乏しいものだとわかった。たとえば、


・戦時中も戦後も岡山の山間部の林業は不景気ではなく、むしろ戦時中は好景気だった(後述)。


・進駐軍作成の地図で検証したが、東京都心部には「グランドホテル」という名のホテルは存在しなかった。


・芦屋には進駐軍を接待する特殊慰安施設はなかった(娯楽施設はあった)。


・「現在は子供も身よりもいない」というが、故郷に弟がいて定期的に連絡を取っていた。


・女学校は出ていない。最終学歴は国民小学校卒である。


などなど、つぎつぎと虚構が明らかになった。


彼女の話の中にはしばしば虚実が入り交じり、ドラマチックな方向に転げていく。それは目の前にいる聞き手を喜ばせたいがための、あるいは自分の本当の人生を隠しておくための、一種の処世術だったのだろう。メリーさんは伝説を演じていたのだ。その白い顔同様、けっしてありのままの自分をさらけ出したりはしない。


だれにも彼女の足取りの裏を取ることが出来ないために、彼女の目撃談や不確かなうわさ話が脚色されて一人歩きしていった。たとえその噂があまりにもできすぎていて、嘘くささが感じ取れたとしても、彼女のまとうオーラや出で立ちがあまりにも強烈すぎたために、人びとは分かりやすいうわさ話に飛びつき、おもしろおかしく伝え広めた。


ちょっと調べたら分かるような嘘、彼女の素性を知らないと分からない虚構、そして誰にもばれずに最後まで守り通した秘密。彼女はつい話をドラマチックにしてしまう性癖があったのかもしれない。あるいは人知れず、引け目を感じていたのだろうか。


その反面、メリーさんは誇り高かった。裸商売は徳を積まねばならない。



*註1 GHQは陰に日向に兵士が日本女性と親しくならないよう、圧力をかけていた。その理由は欧米各国が帝国主義の時代からとり続けてきた「ノン・フラタニゼーション(Non Flatternization)政策」にあった。この政策を一言で表現すれば「被占領地で被占領地住民と兵士が親しくなることを禁じる」ということである。首脳部は、兵士と地元の女性が親しくなると軍としての威厳が損なわれる、と考えたのだ。その上、アメリカには西海岸に住む日系人全員を強制収容したことで悪名高い日系人キャンプの存在など、日本人に対する差別が根強く残っており、戦後も日本人との婚姻を禁じている州がすくなくなかった。


新兵はオリエンテーションのときから繰り返し言い聞かされていたという。「現地女性と遊んでも構わない。しかし絶対に深入りするな」。昭和二一年三月二二日には第八軍のアイケルバーガー司令官からの、四月三日にはマッカーサー元帥からの「地元女性との交際を自粛せよ」という通達が日本の新聞にまで紹介されている。将校クラスに対する牽制、とくに結婚に対するそれは厳しかったという。将校がメリーさんとの結婚を避けたのは、こうした理由によるのかもしれない。


*註2 当時もっとも部屋数が多かったホテルの一つで竣工は昭和一三年。昭和一五年に予定されていた「幻の東京オリンピック」のために建てられ、焼け残った数少ない西洋風のホテルだった。都内ではじめて冷暖房を完備したのもこのホテルで七階は婦人将校と看護婦の専用階だったという。


士官宿舎であるこのホテルに、後ろ盾を失ったメリーさんは本当に入り込むことが出来たのだろうか。


わたしは第一ホテルの広報課に問い合わせてみたが、残念ながら「進駐時の資料は一切ない」とのことだった。次に『占領下の東京』の著者である佐藤洋一氏に問い合わせてみた所、回答は以下のようであった。


Q:お書きになった『占領下の東京』(河出書房新書)の八〇ページの記述を読むと、第一ホテルは単身者用住宅のようですが?


A:第一ホテルは単身者用住宅として使われた可能性が高いのですが、殆どの施設が複合的な機能を持っていたので、その機能だけだったとは言い切れません。本書でも言い切るかたちの文章にはなっていません。


Q:部屋割りはひとり一部屋だったのでしょうか? あるいは第一ホテル居住者であっても、階級によって相部屋とひとり部屋があったのでしょうか?


A:具体的な資料はないのでわかりませんが、普通は、いくつかパターンがあったと考えられると思います。


Q:娼婦を連れ込むことは可能だったのでしょうか?


A:第一ホテルの中で仕事をしていたのか、ホテルの前で客を拾って他でしていたのか……残念ながら詳細は、わかりませんが、少なくとも昭和二一年の春以降は、性病の蔓延などでオフリミットの場所が設定されていますので、すくなくとも公式的には中で仕事をすることは禁じられていたと思われます。しかし何事にも奥の手はあるので、こっそり忍び込んで、ということも考えられなくはありません。それで見つかってつまみ出された、という可能性も考えられますし。


終戦直後は野外や東京中央郵便局のカウンター、果ては歴代総裁の肖像画の掛かる日銀本店の廊下で行為に及んだ兵士も多かったという。しかしこの頃になるとそういったことが出来たかどうか。おそらくメリーさんは数回仕事をしただけであっけなく逮捕されたのではないだろうか。


昭和二七年四月、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は主権を回復している。進駐の時代は終わりを告げ、残った米軍は福生や立川、朝霞など郊外に機能移転した。夜の女たちも街はずれについていったため、都心の盛り場は日本人の街の姿を取り戻しはじめた。本気で稼ぐつもりなら、メリーさんは仕事場を郊外の基地にすべきだった。なじみ客もいたはずだし、見知った同業者もいたはずである。それをしなかったのは、大都会に未練があったからだろうか。




老いた体に盛装を


メリーさんのことは誰もが見て知っていた。彼女は街並の一部であるかのごとく振る舞い、横浜にいれば自然と会えたのものだった。


朝早くメリーさんは関内の街に現れる。伊勢佐木町一丁目の「森永ラブ」(現「浜辺料理 茅ヶ崎海ぶね」)に来店。必ず三番レジにならび、食事とトイレを済ませる。


このハンバーガー屋にはいつでも「予約席」があった。カウンターに向かって右側壁際の奥の方の席だ。メリーさんはその席にしか座らない。壁際だから落ち着けるのだ。もし誰かが座っていたら、睨みつけてどかせる。頑固と言ってしまえばそれまでだが、彼女にはそのこだわりが大切なのだ。一度こうと決めたら自分のスタイルは決して変えない。昔気質なのである。


女を売って生活している以上、外出中の化粧直しを忘れてはならない。ときどき何軒か先にある化粧品店「柳屋」でメイク道具を仕入れることもある。元気があるときは横浜駅前の「高島屋」へ足をのばす。地下商店街を通って地下鉄関内駅へ移動。ベンチに腰掛けて電車を待つ間、小さなウイスキーボトルを取り出してちびり。ため息をつく。それから目の前にならぶ広告の看板を端から端まで舐めるように見る。


横浜駅の地下街と「高島屋」は関内に次いで目撃談が多い場所だ。横浜駅の地下街にどこからともなく現れ、一人歩きするメリーさん。その間ずっと無言である。老いた体に盛装した女をとがめる者はいない。


裕福な家庭に育ったためか、メリーさんは品の良いものが好きだ。お気に入りは家具売場で、高級家具に囲まれてうっとりする。ピアノ売場もすきだ。「海」や「バラが咲いた」などの童謡を片手で、というより一本指で、たどたどしく弾きながらささやくように歌う日もあった。高島屋には二〇年以上通っていたというだけあって店員も慣れたもの。好きにさせている。


帰り際、地下の洋酒売り場を探索する。ウイスキーのラベルが斜め向きなのを発見。正面向きになおす。店員の話では、「よく来てやっています」とのこと。


まだ腰がしゃんとしていた頃は、馬車道や山下公園通りを歩くのが日課だった。シルクホテルと並んでお気に入りだったのがホテル・ニューグランド。戦前はチャップリンやベーブルースが旅装をとき、戦後はマッカーサー元帥が滞留していたというハマの名門だ。


横浜がもっとも横浜らしかった頃、すなわち昭和四〇年頃まで、このホテルの利用客はほとんど外国人しかいなかった。見上げるほど大きな船が海の向こうから着岸するたびに、たくさんの西洋人がはき出され、ホテルは賑いをみせた。ここは小さな外国だった。ニューグランドを利用する日本人は政財界の一流だけだった。


米兵がのさばっていた頃からのなじみであるメリーさんは、当時の横浜を知っている。街が変わり、なじみの店が消えていったが、このホテルは健在だ。昔と変わらぬ雰囲気は、なつかしい時代へ誘ってくれる。食べさせるものも変わらない。


こうして夕方まで時間をつぶす。日が暮れると娼婦・メリーの仕事が始まるわけだが、どうしたことだろう。メリーさんの目撃談や「第三種接近遭遇」的な体験談の数にくらべ、娼婦としての顔を見た人はあまりにも少ないのだ。少なくとも伊勢佐木町界隈では、三十年ものあいだ男と一緒に歩いている姿を見た者はいない。


長いことパンパンだったメリーさんだが、最後の方は日本人も相手にしていた。「横浜日劇」をはじめとした映画館グループの元経営者で、永瀬正敏主演の「濱マイク」シリーズの原案者でもある福寿祁久雄は、娼婦然としたメリーさんを知る数少ない人物のひとりである。


「メリーさんのいる場所は福富町なんだけどね。行動範囲が広いわけじゃないし、こちらもいつも同じようなルートを通るでしょ。だから同じ人が何回も声をかけられてるんだよね、憶えているか分からないけど。目も悪いしね。僕、(メリーさんの)タイプなんですよ。友達でまじめに公務員しているのがいるけど、彼も何度か声をかけられてる。若い奴には声かけないんだよ。なにされるか分からないから。中年できちんとした人がいいみたい。


どうやって誘われたか? すっと寄ってきてね、肘をつかむんです。で『今晩いかがですか?』って。非常にプロに徹していました。計算尽くでね。最後まで客を捜していましたよ」


もうこの頃になると老いた娼婦を買おうという物好きな客はいなかった。


私は平成二〇年の八月中旬、福富町の稲川会系暴力団林一家の事務所で取材をした。メリーさんが立っていたGMビルは林組の縄張りだ。街娼の情報にもっとも精通しているのはヤクザのはず。彼らに話を聞けば、有益な情報が得られるのではないか。


期待に反して、彼らは何も知らなかった。林組ではメリーさんから所場代を取っていなかったため、彼女のことは何も知らないというのだ。五分刈りにした白髪交じりの組員の談話。


「あの人に客が付くわけがない。だから金を取るような真似はしなかった。逆にGMビルに行くたびに、千円ずつわたしていたよ。おれたちはみんなそうしてた。ルールみたいなもんだった」


「あの人のことは何も知らない。全然話さないから分からないんだよ。故郷がどこかも知らないし。オレが横浜に来た四十年前には、もういたね。福富町のメインストリートの焼鳥屋で、よく一人で飲んでたよ」


林組の場所は、福富町の飲食店で訊けばすぐ分かる。この街の者にとって身近な存在だからだ。しかしメリーさんの内情は誰も知らない。取材の過程でも嘘とも誠ともとれる噂をいくつか耳にしただけだ(*註)。


いわく「国立大を卒業した息子がいて弁護士になっている。母親の面倒をみようと考えているが、メリーさんは頑としていう事をきかず、夜な夜な街に立っている」、いわく「平成八年、最後の客を取った。タクシーの運ちゃんだった」「本牧の豪邸くらし」「ああ見えてもいいお客をたくさん持ってるのよ」などなど。値段も「三万円。ただし交渉次第で値引きが効くらしい」から「一回三千円」まで幅が広い。



*註 メリーさんが昭和六三(一九八八)年の秋に伊勢佐木町の私服刑事の袖をそれと知らずに引いてしまい、一日留置された、という情報がある。この件は新聞に掲載されたらしく、二人の方から「見た」という証言も得ている。しかしこの年を含む前後数年間の新聞を何紙か調べたところ、該当する記事を見つけることは出来なかった。




元次郎さん


万物は流転する。しかし彼女だけは、大宇宙の法則に慎ましやかに抵抗していた。人目には異様に見えようとも、己の道を外さない姿勢こそが彼女に独特の気品をあたえていたのだ。己を譲らないことこそが彼女のプライド。街の人びとはそれを許容していた。


中には本気で彼女を心配している人もいた。その一人がシャンソン歌手の永登元次郎さんだ。平成三年八月に関内ホールでのライブをきっかけに親しくなり、ふたりは週一回のペースで会っていた。


生活に困っているのでは、と祝儀袋に「お花代」と書いて一万円ずつ渡していた、と元次郎さんは話してくれた。生活保護を受けさせてあげようと奔走したこともある。メリーさんのことは「西岡さん」とよんでいたそうだ。「わたし宛の手紙に『西岡雪子』と書いてあってね。多分結婚していた時期があって、旦那さんの名字が西岡だったんじゃないかしら」。


元次郎さんとの交流は数年間つづいたが、どこかで一線引いていたようである。


「自宅によびたくて誘ったことがあるんだけどね。(わたしはゲイだけど)男の姿してるじゃない。誘うと『今日お風呂入ってないから』なんて勘違いしちゃって。もう、呼んであげたかったんだけどね」


ある日大雪が降ったときのこと。その日元次郎さんはメリーさんを眼科に連れて行く約束をしていたが、メリーさんが来ない。心配になってGMビルへ探しに行った。七階で休んでいたメリーさんは元次郎さんの姿を見るなり、襲われるのかと思って「やめて!」といったそうだ。結局メリーさんには心を許した人間がいなかったのではないだろうか。




本名は公然の秘密


取材の出発点はメリーさんと親しくしていたシャンソン歌手の永登元次郎さんだった。私はお宅に四、五回お邪魔させて頂き、ずいぶんよくして頂いた記憶がある。その元次郎さんと山崎さんの話で食い違う点があった。「メリーさんの本名」が一致しなかったのだ。


元次郎さんから聞いていたのは「緑子(りこ)」という名前だった。わたしは保土ヶ谷区在住の評論家・平岡正明さんとお話しさせて頂いたこともあるが、平岡さんも「緑子だと聞いている」と話していた。


しかし山崎さんの奥様は「いえ、わたしはこう聞いています」といって、メリーさんの本名と実家の住所が書かれたメモをみせてくれた。そこには「緑恵(よりえ)」という文字が認(したた)められていた。


私が不思議がったからであろう。


「ご実家の弟さんと数回電話でお話したことがありますから、間違いありませんよ」と言って、なんとその場でメリーさんの実家に電話を入れてくださったのである。


電話口に出たのはメリーさんの弟の息子さん、つまりメリーさんの甥子であった。そして、弟さん夫婦は既に他界されていること、メリーさんのことは話したくないこと、山崎さんの主張する名前に間違いがないこと、などがはっきりした。元次郎さんが「本名」だと聞いていたのは「愛称」であって「本当の本名」ではなかった。


ところで、福富町にメリーさん行きつけの焼鳥屋があった。ご主人が好みのタイプだったらしく、二十五年も通っていたという。ここに平成二〇年の二月まで紫式部の絵が入った色紙に書いたメリーさんの直筆サインが飾られていたのだが、サインは本名の「緑恵」名義だった。メリーさんにとって本名は隠すべきものだったのだろうか。明かしても構わないものだったのだろうか。


ただ一つはっきりしているのは、山崎さんも元次郎さんも「西岡さん」とペンネームで呼んでいたことである。それは二人に届いた手紙に「西岡雪子」と署名されていたからだった。


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(メリーさんの直筆書。本名の「緑恵」名義)


*メリーさんの本名を明かす上で以下の点を考慮した。


・写真家の森 日出夫氏が自身の写真集『PASS』新版の中で「ミス・ヨリエ」と明記している。


 またこの件に対して誰一人としてクレームを入れた者がいない。


・メリーさんの直筆画に本名でサインが入っており、平成二〇年の春まで長期間店頭で公開されていた。店主はこれがメリーさんの作品だということを隠していなかった。


・苗字は明かさず名前のみの公開であり、どこの誰かを特定することは出来ない。


なお彼女の母校の卒業名簿でダブルチェックしたところ、旧字体で「緑恵」と書かれていることが確認出来た。




どうしてマンションとか買わなかったんでしょうね?


メリーさんは旅館やホテルに暮らすことを好んだ。長く利用していたのは、福富町西通にあった「一力」という連れ込み旅館(現ソープランド角海老)だ。寿町の外れのアパートに住んでいた時期もあるものの、家に縛られることを嫌っていたように思える。


しかしプライド高いメリーさんも寄る年波に負け、弱音をこぼすことがあった。「自分のお部屋が欲しいの」。


「どうしてマンションとか買わなかったんでしょうね? むかしは相当な収入があったのに」。


インタビューの最中、クリーニング店「白新舎」の奥様は言った。わたしはメリーさんの実家の写真をお見せした。


「きっとなにかあったら実家に帰ればいいという頭があったから、家は買わなかったのね」。


奥様は合点がいった様子だった。




帰郷


老いさらばえて寄る辺なく、福祉の世話になり、挙げ句無縁仏になる。それが流転の性を生きた女の典型的な最期だ。ところが、伝説に生きたはずの「港のメリー」の晩年は、ちがっていた。まるで死期を悟った飼い猫が姿を消すようにしていなくなったと思いきや、故郷で静かに暮らしていたのだ。


「歩けるうちに故郷へ帰ったらどう?」年々躰が不自由になっていくばかりのメリーさんを見かねて、「白新舎」の奥様はこう諭したそうだ。


メリーさんの反応は、それはもう大変な嫌がりようだったそうだが、結局奥様の薦めに従い、帰郷することになった。平成七年一二月一八日のことである。


この日、「白新舎」の山崎さんは新幹線に乗るメリーさんを新横浜までタクシーで送っていったそうだ。


「新横浜で駅長さんに『頼みます』と言って身柄を預けたんです。途中で気が変わるといけないと思って列車が出るまで見送っていました。タクシー代も新幹線代も私持ちでした。三日後の二一日に預かっていたクリーニングの荷物を宅急便で送っているのですが、それもうちの負担です。タクシーの領収書も宅急便の領収書も取ってあるので、日時に関して間違いはありません」と山崎さんは言う。


ところが翌年になるとメリーさんはこっそり横浜に戻ってきた(*註)。それほどまでに横浜が恋しかったのか。それとも故郷は居心地が悪かったのか。理由ははっきりしない。彼女は何事もなかったかのように元次郎さんとの交流をつづけた。一方きまりが悪かったらしく、山崎さんの前には姿をみせず仕舞い。山崎さん夫妻はメリーさんの帰浜をまったく知らなかったという(その件を伝えたばかりに山崎さんとわたしの関係はぎくしゃくしてしまい、かるい罪悪感を覚えた)。


ちょうどこの年、五大路子の一人芝居「港の女・横浜ローザ」(脚本・杉山義法)の初演があった。芝居好きのメリーさんのことだ。もしかしたら自分を主人公にしたこの芝居を観劇したかもしれない。


晩秋にさしかかり、元次郎さんは、自分が経営するシャンソン・ライブハウスの改装、引っ越しに伴うごたごたで関内から離れていた。その隙をつくように、平成八年一一月末。横浜の街からメリーさんの姿が消えてなくなったのである。


元次郎さんは必死で行方を捜し、救急病院にまでくまなく問い合わせた。居所はいっこうに分からずじまい。かなりたってから読売新聞の記者が「岡山にいる」のを発見した。


メリーさんは故郷に戻っていた。



*註 映画『ヨコハマメリー』では山崎さんの証言に則り、メリーさんの帰郷を平成七年十二月一八日としている。しかしわたしはふたりの目撃者から翌年メリーさんを見たという証言を得ている。ひとりは元次郎さん。自らのシャンソン・ライブハウスの工事の時期とメリーさんの帰郷が同じ時期だったため、記憶違いは考えづらい。


もう一人は福富町で水商売のアルバイトをしていた女性で、八月に見かけたという。彼女は自分がホステスのアルバイトをしたのは平成八年二月〜一一月末日だけだが、メリーさんを目撃したのはちょうどこの仕事をしていたときなので絶対に間違いないと断言している。彼女の同僚のなかには、この年の夏、メリーさんに会って千円渡した者もいるという。


ただホステスをしていたこの女性も、平成七年末からメリーさんの目撃情報が激減していることは認めている。GMビルの廊下で生活していたはずなのに戻ってこない日が多かったそうだ。当時彼女の仲間内では「昔のなじみが大出世してメリーさんの生活費から住居まで用意している。今までは甘えたことがなかったが、寒さしのぎで世話になっていたのかもな」と噂していたそうだ。




大晦日のしきたり


じつは彼女の帰郷は珍しいことではない。毎年正月は故郷に里帰りしていたのだ。山崎さんの奥様によると、年の瀬になるとメリーさんはかならず白新舎にやってきたという。


「大晦日くらい本当は休みにして旅行に行きたかったのですが、毎年メリーさんが来るので店を開けていました」。


メリーさんは従業員休憩所でトレードマークのひらひら衣装に着替える。顔や手足には入念に白塗りが施されている。年の瀬になっても出で立ちが変わる様子はない。


「毎年『この人、本当は男の人じゃないかしら』と勘ぐりたくなるくらい両手一杯の荷物を持ってね、いつものあの格好のまま、岡山に帰郷するんですよ。いつも白塗りで素顔は見たことがありません。


毎年大晦日になると『行って参ります』と言って、一月の五日か六日になると『ただいま』って」。


晩年ホームレスになってからも、メリーさんには悲壮感がなかったという。彼女はミュージカルが大好きで、山崎さんのところにパンフレットを山ほど置いていた。保管場所に困ったのか、コレクションしたミュージカルのパンフレットを実家に送ったこともあった。そういえば松坂屋で実家に住む弟宛にそうめんを送っている姿も目撃されている。実家とはずっとつながっていたのだろう。


一匹狼のイメージが強いメリーさんだが、故郷は忘れがたい場所だった。実家に住む家族との絆も断ちがたいものだったらしい。実家には頻繁に贈り物を届けていた。山崎さんの奥様は言う。


「メリーさんは実家に送金していました。本人が『田舎へお金送ってあげるの』と言ったわけではありません。でもそれとなく分かりました。初めの頃はまだ現金書留がなくて為替で送金してましたね。為替の半券が束にしてあって、こんなに厚くなってました」といって奥様は手で厚みを表すジェスチャーをした。


「チッキ(*註 鉄道による宅急便。昭和六一年に廃止)で荷物を送ることもありましたよ」


その一方、家族の話や故郷の話は一切しなかったそうだ。


「私たちの年代の人間であれば、親しくなったら身の上話くらいするのが普通ですが、そういったことはありませんでした。兄弟の話も一切しないし、所帯を持ったという話も聞いていません。同棲もしていないと思います。万が一結婚していたとしたら、横浜に来る前の話でしょうね」


「故郷に弟さんがいることは聞いていましたし、弟さんの奥さんからわたし宛に電話がかかってきたことがありますね。どうして私にかかってきたのかしら? すこしだけ話をしたんですけど、悪い人ではありませんでしたよ。


弟さんと話したこともありますが、『姉さんがすっかり世話になって』という話は出ませんでした」


山崎さんは電話をもっていないメリーさんに代わって、実家に電話をかけてあげたことさえあったという。


「(メリーさんが)『実家に電話をかけたい』というので、携帯電話でいわれた番号(実家の番号)にかけ『ここにお姉さんがいるんですが』と言って弟さんに取り次いでから電話を代わってあげました。車の中でわたしと二人きりの状態で、実家と話していましたね」



*註 チッキとは鉄道による手荷物輸送。またはその手荷物のこと。手荷物の預り証を示す英語の check(チェック・チェッキ)からチッキと呼ぶ。同様の意味をもつ ticket が訛ってチッキと呼ばれた、という説もある。


明治時代から長年、郵便小包とともに小口荷物輸送の一翼を担っていたが、昭和五一年にヤマト運輸の「宅急便」(宅配便)がサービスを開始して取り扱い個数が減少に転じる。昭和六一年に鉄道小荷物サービスが廃止された。これにともない、駅構内で旅客の手荷物を車廻りまで運ぶ独特の服装の赤帽も姿を消した。




岡山


人生のたそがれ時に差し掛かり帰郷したメリーさん。ただ家族とは折り合いが合わず、老人ホームで暮らさざるを得なかった。


先に紹介した「GMビル時代に一緒に飲みに行ったことがあるという男性」はこんな話を教えてくれた。


「この話は真実ではないかもしれません。ひとつの噂として聞いてください。


私が聞いた話では、メリーさんは故郷で結婚していて子供もいたそうです。旧家(分家)の長男ではない旦那さんと子供の三人暮らしでした、しかし戦争で旦那を亡くし、子供を置き去りにして故郷を離れ、娼婦になりました。子供を捨て、すべてを捨てて生きていました。


そのメリーさんが故郷へ帰るにあたって、本家の長男やメリーさんの子供は彼女を許しませんでした。実家にいられないメリーさんは、故郷から少し離れた老人ホームへ入所することになったのです」


山崎さんは後日談を知らなかったという。「老人ホームで『山崎さんに会いたい』と言っていた、と聞いたけれど、それまで老人ホームに入ったのさえ知らなくて。ずっと実家にいるものだと思っていました。岡山に帰ってから一度も便りがありませんでしたしね。一度くらい老人ホームを訪ねようかと思っていたんですが、クリーニング屋の仕事が忙しくて行けずじまいでした」


その一方で隠遁したメリーさんを訪ねた人たちもいた。


平成一二年の正月、元次郎さんはふたりの友人と共に岡山へ向かった。弟の七〇歳を過ぎたお嫁さんと話をしたが、メリーさんを嫌っていた風だったという。


冒頭で紹介したフリーライターの末藤さんはメリーさんの取材をつづけていたものの、苦戦していた。


「しかしすぐに諦めることは出来ませんでした。親身になって世話をすれば、メリーさんだってそのうち心を開いてくれんじゃないか。そんな風に思ったんです。そこでホームヘルパー二級の資格を取りました。


もうその頃メリーさんは故郷に帰っていましたから、僕は自分の計画を実行に移そうと車で岡山に向かいました。そして彼女の実家を探し当てたんです。庭の鯉のぼりが印象的な家でしたね。……でも声はかけられなかった。位負けしてしまったんです」


(メリーさんの故郷)

 

映画「カルメン故郷に帰る」のような


「横浜に帰りたい」


晩年の彼女はそう言っていたそうだ。では彼女の故郷は魅力に欠ける場所なのだろうか?


平成一八年と一九年に、わたしは彼女の郷里を訪れた。そこは岡山県の山間部で、JR姫新線沿いの林業が盛んな土地だった。地元の人が「家族のなかに必ず一人、製材関係者がいる」というほどだ。


最寄り駅はホームに屋根さえなく完全に無人だった。しかも駅員はいないのに舎内に木材事務所が併設されているという奇妙な造りである。駅周辺には商店はおろか、バス停もタクシー乗り場も公衆電話もない。目につくものと言えば、山と積み上げられた原木が並ぶ製材所……それも一軒二軒ではなく何軒もある。どの工場もフォークリフトがせわしなく動いている。さらに歩を進めると、水田や眩しい緑がつづくのどかな風光、休耕地で角材を日干ししているさまなどが見えた。ちょっと離れた山並みまで視界を遮るものがなにもない状態だった。ぽつぽつと田舎らしい立派な造りの家が建っているのが、単調な風景のアクセントになっていた。


製材所が多いため、そこかしこから白木の香りが風に運ばれてくる。山里のひんやりした空気が新鮮で、たまらないほどの心地よさを感じた。旅館はおろか、昼食を取る場所さえない有様だったが、田舎の常として親切な人ばかり。わたしはすっかりここが好きになってしまい、帰浜後、どれだけ素晴らしい場所なのか、吹聴して回ったものである。メリーさんが「帰りたい」といったのは、彼女自身の問題であって故郷がつまらない場所だからではない。


彼女の一族は最寄り駅からほど近い場所に、四軒ひとかたまりになって暮らしてきた(高度成長期までは六軒あったという)。メリーさんの実家から四つ角を挟んだ斜め向かいが一族の本家である。当主は向かいに住む別の親族とともに製材所を共同経営している。その事務所でわたしは一族の長である会長に話を伺った。ほかにも数名の方がいらしたが、全員が親族や近所の方々なので非常にやりづらかったのを覚えている。


会長はメリーさんとは全く似ていなかった。角張った分厚いめがねの奥の目は小さくて丸く、どことなくタヌキを連想させた。年齢はメリーさんよりひとわまり下で、その世代としては中背である。


「あの人が」……彼はメリーさんのことを「あの人」と呼んでいた……「あの人がそういう商売をしていたのは知っているよ。伊勢佐木町で八〇過ぎてね……。その話は酒の席で本人から聞いた。もう死んだけどね。老人ホームで」。一族の間ではメリーさんの話はタブーになっており、よその土地からやって来た向かいの家の嫁は、同族にもかかわらず、晩年のメリーさんが帰郷したことも他界したことも知らなかった。まだ横浜で健在だと思っていたそうだ。


「あの人の話はしないほうがいいな」と言いつつも、会長は話したくてうずうずしているように見えた。


「わたしは彼女よりひとまわり以上年下だから、それほどよくは知らない。私が子供の頃には、もう村にはいなかったから。でもときどき帰ってきてたね。顔は知ってるよ。


よく覚えているのは、昭和二〇年代の終わりか三〇年くらいのことだったかな。突然帰ってきたことがあるんだ。その頃、わたしは学生だったな。


(メリーさんは)鳥の羽がついた帽子に(ひざを組んだ脚を触りながら)こんなブーツを履いてさ。西洋訛りの服装をしていたね。西洋でも位の高そうな格好でさ。あんな服装をしてる人はいなかったから、みんなが足を止めて見とれていたよ。背も高いしね(*筆者注 実際のメリーさんは背が低いが、この土地の老婆としては平均的な身長である。ブーツのせいで背が高く見えたのだろう)。そのころになると、さすがにモンペや袴を履いている人はいなかったけど、それにしてもとっぴな服装だった。


十年位前まで、オンリーから手紙が来ていたよ。差出人の名前は知ってるけど、言わない方がいいな」


「その人はどうしてここから出て行ったんですか?」私は訊いてみた。


「人減らしで…」あるいは「人でなしだから……」と言われたが、どちらだか聞き取れなかった。訊き返したら、なにも話してくれなくなった。


「ここいらであの人の話を訊いても反感を買うだけだよ。訊かないほうがいい」



*註 「カルメン故郷に帰る」は日本初のカラー映画。少し頭の弱いストリッパーのカルメン。自分を芸術家だと考える彼女は、山あいのしずかな故郷でストリップの凱旋公演をしようと考える。純朴な田舎の人びとと派手な身なりで水商売丸出しのカルメンとのギャップがおかしくもあり、かなしくもあり……という作品。木下惠介監督、高峰秀子主演。




娼婦になったのは個人的な理由


わたしは現地で可能な限り調査をした。足りない部分は岡山市内にある図書館や東京の国会図書館でカバーした。その結果、次のようなことが明らかになった。


・映画『ヨコハマメリー』によると、メリーさんは父親の死をきっかけにして娼婦になったという。わたしは彼女の故郷で一族の墓碑銘と実家の登記簿を照らし合わせて確認したが、父親の死は昭和一一年(享年五二歳)。メリーさんが一五歳のときである。


もし映画の通りであれば、彼女は戦前から売春業を行っていたことになる。戦争の犠牲になって娼婦に身を落としたわけではない。


・しかし彼女の実家は大きな家である。娘に売春させなければならないほど貧乏には見えない。むしろ裕福な方だろう。


戦前の農村の常として、彼女のふるさとも貧富の差が大きかった。小作農の子供の中には弁当を小学校へ持っていけない子もいた。またダム工事や製材業のため強制連行された貧しい朝鮮人たちの部落もあった(そこには大人だけではなく、子供たちもいた)。しかしメリーさんの家は、下層に属していたわけではない。


・メリーさんは元次郎さんに「故郷の村は林業が主体で、戦後は需要がなく貧しかった」と語っていた。しかし実際のところ、戦時中は軍からの受注が多く、戦後も決して貧しかったわけではないことが分かっている(*註1)。


・分家の人間だが、親族のなかに製材で財をなし、一代で「山大尽」と呼ばれるほどになった富豪(*註2)がいた。戦時中、国民的文豪の疎開を世話したことでも知られる村の顔役だった。仮にメリーさんの実家が窮乏していたとしても、助け船を出したのではないか。


・終戦後、横浜を含めた都会には食料がなく、仕事もなく、悲惨な状況であった。街の人びとはヤミ物資を求めて買い出し列車に乗り、何度も田舎に足を運んだ。


「都会に行っても食べていけない」


街の女たちがパンパンになったのは、都会では他に食べていく手段がなかったからだ。しかし田舎であれば、食うに困ることはなかったはずだ。山里で何不自由なく暮らすメリーさんが、なぜ生活困難な都会へ行かなければならなかったのか。明らかに不自然である。


・地元の人びとは口を揃えて言う。この村から都会に出るとしたら、大阪にいくのが自然だ。東京まで行くのは少数派、京都に行くのも珍しい部類に入る。神戸に行く者さえいない。だから横浜行きは考えられない。


横浜の人びとは言う。メリーさんは戦後の貧しい生活の中で、やむにやまれず娼婦になったかわいそうな人だ。しかし大変な人生を歩みながらも凛としていたのだ、と。


だが、さまざまな取材結果を検討した結果、わたしが導いた推論はこうだ。 


メリーさんは戦争の犠牲者ではない。彼女は他のパンパンたちのように、食い詰めて娼婦に身を落としたのではない。何らかの個人的理由から故郷を飛び出し、娼婦に転落していったのだ。メリーさんが貧しさから身を売る女になったという神話は、ハマッ子の願望の現れである。


昭和二〇年八月一五日から昭和三〇年前後に市中心部の接収が解除されるまで、横浜の街角には外人兵相手の女たちが大勢いた。つづく港の全盛時代にも、「港酒場の女たち」がそこら中にいた。まだ横浜が港町らしく、エキゾチックな魅力を振りまいていた頃の記憶。いくらでも辿れてしまう昭和の思い出。横浜にふさわしい存在であるために、メリーさんは敗戦国の象徴としてステレオタイプな過去を背負っていなければならなかった。


メリーさんが終戦後の混乱期に寄る辺なく娼婦になったというのは、「横濱ローザ」の脚本家・杉山義法の筆によるものだ。杉山と五大は「メリーさんに題を取ってはいるが、これはあくまでもローザの物語だ」という意味の発言をしている。もし「かわいそうなパンパン」という物語を抱えていなかったならば、メリーさんがここまで愛されていたかどうか疑わしい。


メリーさんが他のパンパン達のように海軍、陸軍といった相手の所属にこだわらなかったのは、この辺りの事情に原因があるのかもしれない。


その一方で不思議なのは、彼女が故郷と繋がりつづけていたことである。メリーさんは故郷に頻繁に贈り物をしたり、年末年始にはかならず里帰りするなど、故郷と繋がりつづけていた。大抵の娼婦は故郷と疎遠になる。しかしメリーさんは例外であった。


他方クリーニング屋の山崎さんは「メリーさんは故郷に帰るのをものすごく嫌がっていました」と証言している。


この落差。


それは娼婦に対する風当たりの強さが原因なのか。それとも故郷に苦い思い出があるからなのか。



*註 岡山県立図書館・郷土資料班のS氏によると、戦時中の岡山ならびにメリーさんの郷里は以下のようであったという。


〈最初に、岡山県の基本的な統計資料である『岡山県統計年報』は昭和一七年〜昭和二一年分の数値が存在しないことをご了承ください。


戦時中の木材の個人需要についてはわかりませんが、国をあげ戦争に向けて木材の需要は増えており、岡山県木材株式会社は増産運動を展開するなどしています〉


意外なことに戦時中の林業は景気がよかったのである。というのも陸軍が鉄道敷設のために大量の枕木を必要としていたことや、各種軍事施設の建設のため、戦時中も公共事業の需要が落ちなかったからだ。


〈殊に昭和一九年度の如きは素材生産、製材生産共予期以上の成績をあげ、素材生産量では割当量を遙かに突破し、全国の地方木材株式会社中生産、供出割当に対する生産供出率は、第二位を獲得するに至ったことは特筆大書すべきところである〉(『岡山木材史』(岡山木材協同組合 昭和三九年)より)


つまりメリーさんの故郷の景気は戦時中も良好だったのである。家業の業績だが、統制により個人経営は不可能になり、製材業者は「岡山県木材株式会社」に統合された。大きな会社の自社株保有従業員という立場だったため、金銭には困っていなかったと考えるのが妥当だろう。


戦時中のみならず、戦争直後も建築ラッシュで景気がよかったそうだ。戦前生まれの地元の住職は言う。


「この辺りは杉や檜が有名で、終戦後も景気がよかったと記憶しています。ガンガン木を切るもんだから、おがくずが山ほど出たんですよ。(都会では燃料がなくてみんな震えていたと言うけれど)終戦直後からストーブ焚いてましたよ。石炭や灯油ではなくストーブにおがくず入れて暖を取ってました。一般の家庭もみんなおがくずストーブでしたよ」


メリーさん世代の方が小学校にあがった頃、教室ではまだ一メートルくらいもある土製の大火鉢が使われていたという。小学校の途中でストーブに変わったが、そのころは石炭や石油のストーブではなかった。山に行ってスギの葉を集めてきたり、製材所で切れっ端をもらってストーブにくべていた。そしてなんと列車の中にも車両ごとに一台ずつストーブが据え付けられていたという。ただ例外的に駅の待合室は石炭ストーブだったらしい。


*註2 繁栄は一代限りで終わってしまった。息子が医者になり大阪に出たため、引退後山大尽自身も大阪に移住。大阪で亡くなったが、遺骨は故郷に埋葬された。岡山県木材組合連合会の大物だった。




学歴と結婚


この村もむかしは貧富の差が激しかった。子だくさんの家の子は、小学校を卒業すると縫製工場で有名な倉敷市児島のミシン工場へ勤めたり、倉敷紡績へ女工に行った。理由は口減らし。だから故郷をあとにすると、まず帰ってくることはなかった。瀬戸内の工業地帯には全国から女工が集まり、集団就職したという。そうした女工たちは一段見下されていた。女工哀史の世界である。


地元の女学校を卒業した女性に聞いたが、進学したのは小学校のクラス四十人の中で五人(医者の娘、先生の娘、郵便局長の娘、産婆の娘、特別勉強の出来た人の五人)だけ。あとはみんな小学校を出たきりだったそうだ。


メリーさんは女学校を出ていると聞いていた。同級生の談話を取ろう。あわよくば卒業写真も見てしまおう。そう考えた私は旧制女学校の関係者にコンタクトを取り続けた。


その結果分かったのは、メリーさんは女学校を卒業していないということ。戦前の女学生は恵まれた立場にあり、連帯意識が強い。彼女らは同級生全員のことをとてもよく知っている。しかし地元の女学校OGには、メリーさんのことを知る人はいなかった。なかには一学年しか変わらず、同じ地区に住んでいたにもかかわらず、彼女のことを知らない者さえいた。通学圏内ならびに入寮する可能性のある岡山市内の旧制女学校も、記録を見る限りでは卒業していない。彼女の趣味は絵を描くことだった。習字の嗜みがあり、難しい言葉もずいぶん知っていたらしい。学歴を偽っていたほどだから、よほど女学校に行きたかったのだろう。


一方メリーさんは昭和八年三月二七日に、自宅から二キロほど離れた小学校を卒業していることを校長先生の協力により確認した。メリーさんと同年代の女性は言う。


「小学校は四年生まで共学。でも卒業しちゃうと全然話さなくなるんですよ。汽車でも別々だし。小学校のクラス会も全然なくて、最初のクラス会は卒業してから二十年くらいしてからだったかしら。そのときやっと同級生の男の子と話したんですよ」


「結婚は二〇歳過ぎてから。ふつうは二十二、三で結婚しましたね。二十四だと『遅い』といわれてね」


当時は「人生五十年」の時代(*註)。見合いや親同士の取り決め、許嫁が多かった。元次郎さんの話に依れば、メリーさんが故郷を出たのは二十五歳の時だというから、既に結婚していた可能性はかなり高い。逆に未婚であったとしたら肩身が狭かっただろう。


田舎は濃厚な人間関係のしがらみが、ねっとりひろがる世界である。このしがらみを棄て都会に出て働くのは、解放感を伴う反面、半身を失うほどの覚悟が必要とされるにちがいない。ましてメリーさんの場合、裕福な一族に育っている。肉親や友だちもいたはずだ。一切を棄ててしまうのは、よほどのことがあったにちがいない。


メリーさんの身に何があったのかは分からない。しかしこれだけははっきりしている。メリーさんは、時代のせいで「夜の女」になったのではない。若き日のメリーさんは閉じられた小さな世界を後にした。



*註 昭和二二年の日本の平均寿命 男=五〇・〇六歳 女=五三・九六歳 


*備考 岡山県に学区制が導入されたのは戦時中の昭和一九年一月である。つまりメリーさんが女学生だった頃は、県内のどこでも好きな学校に進学出来た。とはいえ、当時の公立女学校の試験はむずかしかったため、地元から遠く離れた私立校に寄宿した可能性も完全には否定出来ない。


しかし、公立校であっても女学校に行くこと自体が費用の面で大変だった時代、遠方の私立に通った可能性は極端に低い。少なくとも岡山市内の旧制私立女学校の卒業名簿には、彼女の名前はなかった。




伝説は海辺から遠く離れて


全身白塗りの外国人専門娼婦。メリーさんはお浜をはじめとする歴代の「港のマリーたち」の正当後継者だ。ただひとつ大きく違っていたのは、彼女が海から縁遠い世界で育ったこと。漁師の娘だったお浜とは対照的に、メリーさんは閉鎖的な山里の出身なのだった。


この辺りは近代に入るまで隠れ里のような地域だった。鉄道や国道が開通してからも、人びとは外の世界へ滅多に出なかったという。話を聞いた旧制女学校卒業生も「同年代の人の中には、海を一度も見たことのない人が結構いるんですよ」と言っていた。さすがに今はそんなことはない。先の住職もわたしが話をした中学校の先生も東京暮らしの経験があった。車に乗る人であれば岡山市まで出ることも珍しくない。しかしその一方、鉄道利用者は姫新線の終点・津山の乗り換えで待たされるため、岡山市内まで行くことさえ滅多にないそうだ。


辺鄙な山あい出身の女が「"港の"マリー」として語り継がれたのは、大いなる皮肉であった。彼女は老人ばかりのちいさな共同体で十年あまりの余生を過ごした。もはや彼女が有名な通り名で呼ばれることはない。だが、その顔にはうっすらと白い化粧が施されていた。


平成一八年一月二五日、ラジオから「ハマのメリーさんが……」というアナウンスが聞こえてきた。「七十四歳のとき、突然横浜から姿を消したハマのメリーさんが、中国地方の老人ホームで亡くなっていました。八十四歳だったそうです」。


実際の命日は一年前。平成一七年一月一七月だった。死因は心臓発作。


メリーさんの実家を出て、さして広くない畑を左手に見ながら農道を二百メートルほど歩くと、トラクターを格納した農作業小屋がある。ちょうどその裏手、灌木の生い茂った高台をわずかに登ったところに、一族の墓石三十基ばかりが並んでいる。古びた墓碑のなかには享和、天保など年号が江戸時代のものや、風化して読めなくなったものもある。


砂利敷きを踏みながら徘徊すると、目当てのものは左の奥隅にあった。戒名、慈光院妙覚緑清大姉。伝説の娼婦は真新しい御影石となって陽光を受けていた。弟夫婦の墓に隠れるようにして鎮座するそのさまは居心地が良さそうに見える。横浜で育まれた「港のマリー」の物語は、海辺から遠く離れた山里で幕を閉じた。オレンジ色の金盞花(キンセンカ)とシキビの枝が彼女の痕跡を飾っていた。



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*この作品は二〇〇九年に株式会社データハウスより出版した書籍「消えた横浜娼婦たち」(檀原照和・著)の第三章全文です。

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書名「消えた横浜娼婦たち---港のマリーの時代を巡って」

著者 檀原照和

版元 データハウス

定価 一七〇〇円(税別)

発売 二〇〇九年

http://www.amazon.co.jp/dp/4781700160/


十年におよぶ取材で明らかにされる「語られなかったヨコハマ正史」。


それはロマン以外には何も生みださなかった港町が、

海上貿易の衰退によってそのロマンすら失い、

月並みな観光地へと収束していく歴史だった。


進駐軍物資を襲う海賊から、「ヨコハマメリー」の知られざる物語まで。


語り直しの近代史。「東京から最も近い異境」の地下世界物語


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